臨済宗妙心寺大智寺

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今月の禅問答  月刊エッセー文机  環境のこと  アクセス  大智寺だより

マンスリー音読禅問答

今月の禅語


蟭螟眼裏五須彌
しょうめいがんりのごしゅみ

蟭螟とは、蚊のまつげに巣くうという微小な虫である。
須彌とは、世界の中心に存在するとてつもなく巨大な山である。
私達の住む世界は、その中心から遠く離れた小さな島の小さな場所とされている。

朝方の涼しい時間帯にとても小さな黒い虫が
本堂から、庫裏から至る所に発生していた。
毎日のことだったので、いつの間にか慣れており、
いるのが当然だと思っていたのだが、
近くの方の「何だ?この黒い虫。びっしりいる。」という言葉に
かつての感情を思い出しつつ
「あれ?もしかしてここだけ大量発生?」とちょっとだけ悲しさが生まれた。

ところが、その数日後、「広報ぎふ」の中に、
この虫の大量発生情報がでていたことで、
「やっぱり大量発生していたんだ。」という妙な安心感に包まれ、
その正体が、体長1ミリ、寿命4日のクロバネキノコバエという情報を得たが、
結局のところ、打つ手はないらしい。

さて、今月の禅語は、「蟭螟眼裏の五須彌」である。
今月はこれしかないと強く思った。
キノコバエも最初のうちはヤキモキさせてくれたが、
最後にはどうでもよい存在になった。ごくごく微小な存在である。
そんなキノコバエよりずっと小さい蟭螟とやらは、
ますます取るに足らない存在であろうが、
その目の中に、須弥山を五つ重ねたほどのものがあるとこの禅語は説くのである。

月を見れば、月が目に入る。海を見れば、海が目に入る。
須弥山を見れば、須弥山が目に入る。
蟭螟も、キノコバエも、私も見ることはできる。
そして、この目はすっぽりと写しとることができるだろう。
それは見ただけ、それは中にあるとはいわない。
そういう制限を心から取り払えば、自分の存在はどこまでも大きい。
どんなものでも受け入れ可能である。

小さな島の小さな場所の小さな存在だって、
あれやこれやと思うところがある。
やれ悲し、やれ楽しと思う心が、
この世界を創り出しているのである。

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語録

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野干鳴獅子吼
やかんめいししく

野干は狐のことで、
その狐の鳴き声と獅子の咆哮の対比の禅語である。
偽物の説法と本物の説法は、似て非なるもの、
あるいはまったくの別物である。

先日、妙心寺派岐阜西教区主催の寺子屋研修会という行事があり、
大智寺もその一員として加担した。
一泊二日の修行合宿を体験してもらったのだが、
それなりに満足していただけただろうか。

さて、合宿の人気イベントといえば、お風呂である。
どういうわけか、皆一様にはしゃぎだし
体洗うのもそこそこ、大急ぎで湯船に突っ込んでいく。
水風呂、サウナと面白そうな場所がいくつもあるから、
次から次へ移動して、収拾がつかない状態になる。
他に人がおらず、まるで貸し切りだったので、
「泳がない、騒がない、飛び込まない」
こういった当たり前のことをしっかり指示、注意できなかった。
「他に誰もいないから」とつい思ってしまったのである。
当然、子ども達は、素直に、思うままに、騒ぎ続けた。

他の方が入ってきて、貸し切りが終わる時に、
「もう騒ぐの止めなさい」私は言った。
さっきまで何も言わなかったのに。

合宿が終わってから、私は間違ったことをしたと反省している。
人がいようがいまいが、「あるべき姿」「なすべき事」は変わらない。
その基準を私の勝手な判断で歪めたに過ぎない。
こういうことが野干鳴なのだろう。
それっぽい注意や説教だけど、本当に伝えるべきことを伝えていない。
狐が人を化かすように惑わしただけだ。

反対に、明るく元気な彼らの声が獅子吼なのかもしれない。
楽しい時は、楽しい声がでるんだ。
風呂に入るということは、とても楽しいことなんだ。
そして、一本筋の通ったことを言い、行動をしろ。

「きゃっきゃっ、きゃっきゃっ」の中にこそ、厳しい教えがある。

泥裏洗土塊
でいりにどかいをあらう

板取にあるスイレンの咲く池は、
とても透明度が高く、美しい池なのだとか。
かつて誰にも知られていなかった場所が
モネの池という名前をいただいてから、
とても輝かしい場所に見えてくるのは不思議なものである。

大智寺のお隣、獅子庵の池にも、睡蓮はたくさん咲いている。
びっしりと葉に覆われている上に、その透明度はかなり低い。
「これは蓮ですか?」「いいえ、睡蓮です。」
こんなやりとりがちょくちょくあるのは
この池があまりにも泥で汚れているからだろうか。

さて、今月の禅語は、「泥裏に土塊を洗う」である。
泥の中で土の塊を洗ったところで、べたべたどろどろ。
決して綺麗になるはずもなく、そのけがれ、その醜さは極まりない。
しかも限りなく無駄骨であるという意味になる。

学び、鍛え、努力をしても、
それは限りなく無駄骨なのだろうか。
坐禅をし、読経をし、修行を積んだとして、
凡夫である私たちは、汚れたままで仏になれないのだろうか?

こんな問答がある。
「蓮華がまだ咲いていない時は何と呼べばいい?」 → 「蓮の華だ」。
「では、咲いたら何と呼ぶ?」          → 「蓮の葉だ」。
私たちは、本来仏である。
学び鍛え努力をすれば、花開く素質がある。
この問答のように、咲いてなくても、蓮華は蓮華。
すばらしい存在であると、自覚してほしい。
だが、ひとたび咲いたとしても、
咲くことを願い続ける蓮の葉であり続けなければならない。

できることが増えて、
自分は前より優れた人になったと思っても、そこに安穏とせず、
常に泥中にいるかのごとく、ドロドロともがき、
一つ、もう一つと咲かせよと説いているのである。

進んでいるのかいないのか分からないようなわずかな変化で、
まるで無駄骨を続けているように感じたとしても、
その先にしか蓮華は咲かないのである。

三人證龜作鼈
さんにんきをしょうしてべつとなす

「證」→「証」 「龜」→「亀」 「鼈」→「すっぽん」
三人いて、三人とも亀のことをすっぽんだといっている。
つまり、ことごとく皆間違っているという意味になる。

世の中では毎日毎日休みなくいろいろな出来事が起こっている。
口利き疑惑が鳴りを潜め、今は公金私的流用疑惑、
これからは、消費税増税延期が話題の中心になるだろうか。
増税延期は、生活に直接影響を与えることだから、世間の関心も高いことだろう。

此度の判断は是か非かといえば、私は是だと思ってしまう。
何しろ今はありがたい、それは確かである。
それに対して未来は、不確かでそこまで考えが及ばない。
だからこそ、導き出す答えが、今の自己都合に大きく引きずられる。

一個人の一意見なら間違えても影響は小さいが、
リーダーだって同じように間違える。
自分の後援者に応えるため、歪んだ道でも押すことだろう。
大衆に支持されるため、できないものでもできると言うだろう。
どうして彼が正しい道を選べないのかというと
大勢の一個人が皆、自分の都合のいいことばかりを期待するからである。

ことごとく皆間違っている。
疑って欲しい。
その意見は、その考えは、
自分の都合を考慮しすぎていないか?
自分の立場を全面に出しすぎてないか?
ということを。
何しろ禍福はどんどん変転し予測できないと
「塞翁が馬」という有名な故事の中にも描かれている。、
福を選び続ける行為こそが、禍の始まりなのである。

一聲霹靂驚天地
いっせいのへきれきてんちをおどろかす

雷が鳴る季節が来た。
この雷が困ったのもので、
時に電気系統に障害を引き起こす。
そんなもんで、深夜の一撃があると慌てて飛び起きることになる。
今月の禅語に含まれる「霹靂」は、この雷のことで、
すごい雷の音が世界を驚かすというところから、
明眼の師家の一言一句という意味となる。

さて、世の中はゴールデンウイークでにぎやかしいが、
雲水の修行する道場でもまた5月1日(違う場合もあり)からは
輝かしい時の到来でなる。
それまでの托鉢、作務、公案に加え、
碧巌録や無門関という昔の書物を通して
仏法を学ぶ講座という機会が得られるのである。
その古い書物の中では、大和尚と僧の問答がいくつもあって、
その中の名言がいわゆる禅語である。

わずか数文字の短い句の中に、
仏法の教えが織り込まれているのだが、
この言葉は機が熟していないと、心に響かない。
というか全く意味が分からず、???で終わってしまうのである。

すべては自分の心が作るもの。
耳を澄ましていれば、雨の音、石の音でさえ、
霹靂のような爆音に変わるはずだ。
そこらに転がっている当たり前を、
意識的に感動する心のトレーニングが必要なのかもしれない。

萬两黄金也合消
まんりょうのおうごんもまたしょうすべし
一般会計の予算案が可決、成立とニュースが流れた。
その度に「過去最大」という言葉を聞いているような気がする。
それに続いて、いつだって借金漬けと文言が続く。
考えなしに借金を増やしているのか
踏み倒す算段を用意しているのか分からないが、
その内、夢から覚める日がくるのだろう。
「かつてはお金や物が溢れていたのに・・・」と嘆いているような
そんな姿が目に浮かんでくる。

植物の世界に目を向けると、
春に新芽がでて、夏に葉が生い茂り、秋に落葉して、冬に眠る。
動物の世界では、もう少し長いスパンで、
生まれて、成長して、老いて、次世代と入れ替わるように消えていく。
固体が、種族が、繁栄しては滅していく。

お釈迦様は、諸行無常を説かれた。
すべてのものは変化し続ける。
今月の禅語は、まさにそのまんま、
どれほどの黄金があったとしてもそのうちなくなるということだ。
いい時だけを過ごし続けることはできない。
必ず冬が訪れる。
だが、なくならないもの、変わらないこともあって、
それが諸行無常という真理そのものである。
その教えに従えば、冬も耐え忍んでいればいずれ終わる。

時は今まさに春である。
蜘蛛の巣に引っかかり不快に思っても、
花粉で目がかゆくても、
何しろ暖かく、動きやすく、気分が明るくなる。
春の到来に感謝しながら、
今日という日を楽しみたいものだ。

莫謗他好
たをそしることなくんばよし

来る参院選に向けて、
各政党がそれぞれの戦略を練って取り組んでいる。
今一番大きいニュースといえば、民主党と維新の党の合流だろうか。
これに関連して、互いが互いの欠点を突いて謗り合っている。
与党側からは、
「選挙のためだけに大同団結すれば野合のそしりもあるだろう」。
野党側からは、
「野合といわれたくはない。あなたたちには言われたくないという気分だ。
自公の連立はいったい何なんだという思い。」
などの発言がある。

選挙の目的は、人々の暮らしを守り、
より良い方向に国を動かす為であり、
相手に勝つことではない。
だとすれば謗るという行為は、本来必要ないのである。
互いに謗り合って、潰し合って、有権者は混乱するばかりである。

相手を下げたところで、自分は決して上がらない。
上がったような気がするだけで、進歩はない。
同様に、怠惰な道に流されそうな時ほど、
同じような人を見ては、自分を許し、
駄目な部分だけ重ねて、自分を誤魔化してしまうのである。

あの人も○○だから、みんなが△△してるから・・・。
「それがいったい何なんだという思い。」を持たなければいけない。
自分の成長には何ら関係ない。
だからこそ、他を謗しること莫くんば好し。
下げるなら自分。そして下げたままにしないことを選ぼう。

誰家竈裏火無烟
たがいえのそうりにかひにけむりなからむ

最近、大物政治家の贈収賄ニュースが世間を騒がせている。
「火の無い所に煙は立たぬ」ということわざがあるが、
今回は、煙と一緒に大きな炎も見えてしまっているようだ。
ただ、落とし入れられたとか、嵌められたとかの情報もあり、
なかなか複雑な事情がありそうだが、
いずれ詳しいことも分かってくることだろう。

さて、今月の禅語の意味は
さっきのことわざとほぼ同じで、火と煙はセットであり、
何処の火に煙がないことがあるか?である。
そこからの解釈が異なり、
誰にだって仏性はあるという意味となる。
火は煩悩でも指しているのか、煙は向上心でも指しているのか、
人がいれば、そこには仏性が絶対にある。

何しろお釈迦様がお悟りになられた時、
すべてのものは仏性を持っていると感嘆なされたのである。
仏性とは、お釈迦様と同じ心、世界を真っ直ぐに捉える心である。
痛いものは痛い、楽しいものは楽しい。怖いものは怖い。
逃げたい時は逃げたい。挑戦したいことは、挑戦したい。
ただただ、一生懸命に生きる心である。

お釈迦様が悟られる直前、
たくさんの悪魔が邪魔をしようとしたといわれている。
お釈迦様だからこそ、それら全てを振り払ってお悟りを得ることができたが、
私達は、悪魔を退けるほどの強い心というものを持てるのだろうか?
その問いに対するお釈迦様の答えはイエスだが、
それは可能性を秘めているだけにすぎない。

いろいろなところで悪魔が囁く。
罪悪感を持たないように、痛みを感じないように
少しずつ、少しずつ、惑わされていくのである。
人がいれば、そこに仏性はあるけれど、同じように煩悩もある。
だからこそ自分にも、人にも流されないように
今現在の立ち位置の確認、看脚下が求められるのである。

古木鳴寒鳥空山野猿啼盡
こぼくかんちょうなき くうざんやえんなく

こんなにも暖かな冬はめずらしいのだろう。
毎年慌ててスノータイヤに替えていたのだが、
今年は、いっこうに活躍できない。
こういう時は不思議なもので、
雪が降って欲しいと思っていなくても、
なぜか残念な気持ちになる。
しかも、未だ秋のような気がして、
パリっとした感覚のないまま、
新年を迎えることになりそうだ。

さて、今年は申年なので、猿にちなんだ禅語を選んだ。
年を経た古木で鳴く冬の鳥、人気のない寂しい山でなく猿の声
物悲しくそれでいて深みのある真冬の情景が想像される。
そんな凛とした空気を身にまとい、
静まり切った心で日々過ごしたいものである。

ところが、どこにでもあっただろうそんな景色も失われ
今の日本は、コンクリートロードに電柱電線。
交差点にはLEDが眩しいコンビニエンス。
これが当たり前。

遠くにある理想郷を追い求めるのもいいけれど、
最も近い自分に目を向けるべし。
新しい年だからこそ、照顧脚下。
雪が降ろうが降るまいが
自分で、自分の心を切り替えなくては。

看看蠟月盡
みよみよろうげつつく

蠟月は、12月を指している。
この12月は禅門にとってもっとも大事な時といえる。
お釈迦様が悟られた月であり、
言葉で表す事ができないその心を、
代々伝えきたのが禅宗である。

生き物は生まれてきて、やがて死ぬ。
どんなに頑張ったところで、
無情にも時は刻まれ続ける。
小さな細胞一つが、数えきれないくらい増えて、
その生を謳歌するのも束の間、
ずっといい方向に進んでいたはずなのに、
いつからか求める所から離れていくことに気づく。

さて、今月の禅語は看よ看よ蠟月盡くであるが
『盡きる』は『尽きる』のことで、
ほらほら、12月が終わってしまうぞ、
つまり、グズグズしていると命がなくなるぞという意味である。

春夏秋冬春夏秋冬春夏秋冬
季節は無限にループしても、
自分は決してループできない。
自分の教え、記憶、脳を伝え残したとしても、
そこから生まれた者は似て非なる物。
たとえ同じ意思、同じ考え、同じ心を持ったとしても別の存在。
自分の願いは託すことしかできない。

看よ看よ蠟月盡く。この文章を読んでいるうちに
私の時間は、また少し減ってしまった。
減った時間は本当に『少しだけ』なのだろうか?
あとどのくらい残っているかも知らないのに。

鷄寒上樹鴨寒下水
とりさむうしてじゅにのぼり かもさむうしてみずにくだる

今年は暖かい秋が長く続いていると思う。
朝晩は冷え込むが、日中はとても過ごしやすい。
私もとても有り難く思っているが、
寺の番犬君はもっと有り難いと思っていることだろう。
だいぶ老いて痩せてきて、いつも寒そうである。
かつて楽しみにしていた散歩もいきたがらない。
雨など降ったら論外である。
だから太陽がでて、気温が上昇する日中は
日向へ移動して幸せそうにゴロンとなる。

さて、今月の禅語は寒い時の鳥と鴨の行動の違いから
仏教の教えを説く禅語である。
鳥は、寒くなれば木の上へ
鴨は、寒くなれば水の中へ
それぞれが、それぞれの最適な所に落ち着くという意味である。

暑さ寒さ、太陽光など生き物すべてに平等に与えられる。
けれど、それに対する反応は生き物ごとに、また各個体ごとにも異なる。
平等だと思って同じものを与えても、そこには明確な差がでる。
同じ個体だって、
若い時できたことも、老いたらできなくなっていく。
未熟なことは、時と共に熟練に変わっていく。

時間もまた平等のようで、平等でない。
一日はすべての人に等しく24時間だが、何日貰えるかまでは分からない。
差があることが悔しいかもしれないが、
AさんはAさん、BさんはBさん、
鳥は鳥だし、鴨は鴨、老犬は老犬なのである。
老犬は子犬になれないし、AさんはBさんではない。
姿かたちの違いはあっても
その価値を平等と捉えるのが仏様の教えである。

富嫌千口少貧厭一身多
とんではせんこうもすくなしときらい
ひんしてはいっしんもおおしといとう

新聞を読んでいると、ミニマリストという記事が目についた。
余計なモノを持たないことで、
仕事や趣味に時間とお金を使うという考え方だそうだ。
日々過ごしていけるものがあれば良いという考え方は、
大量生産大量消費の現代社会においては、極めて合理的で、
環境にとっては多いにプラスだろう。
あれが欲しい、これが欲しいと、
もの、モノ、物で溢れかえらせた暮らしを十分に極めたからこそ、
別の視点を持つ人が現れることは、自然なことなのかもしれない。

かつての修行僧も、道を求め、
袈裟入れの箱、名を記した紙、
袈裟、経本、食器、剃刀、雨具をもって
各地の寺を転々としており、これだけでこと足りていた。
但し、行脚中には、宿を借りたり、食べ物を頂戴したりと
見知らぬ者を受け入れてくれる社会があったから
可能だったということは忘れてはならないのだが。

さて、今月の禅語はミニマリストの考え方と一部重なる
『富嫌千口少貧厭一身多』を選んだ。
その意味は、求める時は千あっても足りない、
要らない時はこの体さえ邪魔だということから
放行する(使う、捨てる)時は徹底的に、
把住する(手に入れる、蓄える)時も徹底的にである。
ミニマリストと違うのは、この禅語には精神的な意味も含む所である。
何も人が蓄えている物は、物質だけでない。
知識や、思い出、悲しみ、遊びたい欲求、自分のこだわりなど
それらも捨ててしまえと言っているのである。

それでも全部なくなることはない。
生きているのだから、
食事もするし、睡眠もとる、仕事もやれば、休みも必要。
取り組む一つ一つの動きに対して、
その一瞬は、他ごとをすべて忘れて、
徹底してその動作を行うべし
それがこの禅語の伝えたい生き方なのである。

月到中秋滿風從八月涼
つきはちゅうしゅうにいたってみち かぜははちがつよりすずし

8月初旬、雨も降らずに毎日毎日暑い日ばかりで、
これが毎日続くかと思うとうんざりだった。
それが、あれよあれよという間に涼しくなり
朝晩はとくにそれが実感できる。

さて、今月の禅語は、全く捻りのない直球である。
中秋(旧暦8月15日)に近づくにつれて月が満ちていき、
風は八月から涼しいということだ。
つまり、この世はかくのごとし、
真っ直ぐで自然体であるということなのだ。
秋は涼しく、冬は寒く、春が来れば暖かく、夏になればまた暑い。
月は昇るし、日は沈む。すべて自然の姿である。
多少のズレがあるとしても、大きく変わることはない。

人にとって、ごく自然にあるものが『苦』である。
お釈迦様はそれを『一切皆苦』と説き、
この世には苦しみしかないと教えている。
できればどこか遠くに行ってほしいが、
決して離れてくれない。
楽しい、嬉しい、心地よいなど、
いろいろな感情によって一時的に忘れることがあるとしても、
これからも、『苦』はずっと傍にあるのだろう。
もしそれに逆らおうとしても全く無駄なことだ。
今月の禅語のように、世の中かくのごとし、だからである。

他にも、『柳は緑、花は紅』など、
そのまんまという意味合いの禅語は結構多い。
真実をありのまま受け入れることは、それぐらい難しいということだろう。

ちなみに、ありのまま受け入れるのがとっつき難い場合は、
ポジティブに捉えるといい。
科学的にはそうすることで幸せになれるらしい。
『お陰さま』と思うことを毎日3つ記録すればいいとのこと。
まずはこちらからトライしてもいいかもしれない。

脚跟隨他轉
きゃくこんたにしたがっててんず。

脚跟で「かかと」のことで、他の人に従って方向転換をするところから、
本心が定まらず、他人についてまわるという意味になる。

新国立競技場の建設問題が頻繁に取り沙汰されている。
約1300億円の予算で、白紙撤回される前までは、
倍近い約2520億円だったとのこと。
1300億円で実施するという計画なのだから、
オーバーした時点で大問題であるのは確かだ。
すったもんだの末、政治決着により白紙撤回に至ったのだから、
強いリーダーシップが発揮されたということだろうか。

多くの人が、それぞれに思う所がある。
高いと思う人がいて、作るべきと思う人がいて、
利益を受ける組織もあれば、迷惑を被る所もある。
そういう感情や実利は隣人へと波及していく。
どこもかしこも繋がっていて、すべての影響を推し量ることはできない。
国の大きな決断に限らず、
自分という小さな個人の行動だって、自分の想像よりは大きい。
あなたに巻き込まれ、動かされた人は必ずいて、
プラスに捉える人もいれば、マイナスに捉える人もいる。

だから、仕事やお金があって、スーパーやコンビニがあって、
警察、消防、病院があるから、
誰にも迷惑をかけないで生きていけるなんてことは勘違いだ。
結局は、社会の仕組みと関わってしまう。
その仕組みの中には、たくさんの人がいる。

さて今月の禅語は、
他人の言句に流されフラフラしてはいけないということなのだが、
先の通り自分の存在を世界から切り離すことはできない。
大げさに言えば、自分は世界を動かす力があるともいえる。
そんな大きな力を、振りかざすのだから
自らの考え、行動には、常に気を配り、
自分の損得を越えて、正しいと思うことに取り組むべきである。

ところで、「自分の考え」と思っている胸の内のアイデアや感情は、
本当に自分のものなのだろうか。
自分が他の人に影響を与えるように、
外からの影響を強く受けていると考えるのが自然だろう。
何物にも動かされることのない自分というものは、本当にあるのだろうか?
私達が自分と思っているものは、
子どもの塗り絵のような存在なのかも知れない。

駕與靑龍不解騎
せいりゅうにがよすれどものることをげせず

青龍は名馬の名前のこと、駕は乗り物に乗るという意味。
與は与えるの旧字で、騎は馬に乗り走らせることである。
全体の意味は、名馬の背に乗せてもらっても、
走らせるのは分からない、またはできないとなり、
結構なものを手にしても、使いこなす力量のない者には何もならないということだ。
馬鹿にされているようで腹立たしいが、
もちろん私には青龍の価値などが分かるはずもなく、
ご指摘通り騎れもしない。

さて、最近のニュースで18歳以上に選挙権が与えられるようになった。
ある新聞のアンケートでは、その70%程度が「投票に行く」を選んだらしい。
それに対して、現在の投票率は50%割れの水準であり、
国民の半分が権利を行使せず放棄していることになる。
その最大の理由は、自分の一票では
世の中は変わらないと思っているからだろうか。
だが、日本の将来を左右する重大な事案は、
その一票でしか動かせないのも事実である。
その点を真剣に考えている人ほど、危機的で、
藁をもすがる思いでその一票を投じ、さらに別の手段を取っていることだろう。

ある物や事象に対して
どれだけの価値を見いだせるかということが、
自分自身の向上につながるのだと思う。
良いと思う物に触れるから、丁寧な扱い方を学び、
好きで取り組む事だから、いつのまにか上達する。
必要だと思うことが、行動につながっていく。
最初は、下手で、雑で、興味もなく、楽しみもない。
価値など分かるはずがない。
目にし、耳にし、関わり、触れることで、
価値の分かる人に変わっただけだ。

今月の禅語は、何にもならないという貶し言葉ではなく、
今は力及ばずとも、いずれ分かる人になれるという
叱咤激励なのだろう。
この先、何らか結構なものを頂戴したら、
是非とも使いこなせるよう、精進してみてはいかがだろうか。
その際、感謝の意を忘れない事も肝要である。

吹毛用了急須磨
すいもうもちいおわって きゅうにすべからくますべし

吹毛は名剣のことで、
常に切れ味を失わないように磨くべしということである。

急に思い立って片づけなどをしてみると、
触りたくないような埃だらけのものや、
最後に見たのはいつだ?というような懐かしいものと出会うことだろう。

小学生の頃使っていた書道セットの中から
錆びた文鎮と固まった筆、未洗いの硯がでてきた。
使われない物は、本来の寿命を迎えることなくその価値が失われる。
また100円で買った傘やボールペンは、
どんどん増えて、そのうち消える。
道具を使い切ることなく、無駄にしてしまうことは、
現代社会特有の病ともいえる。

さて、今月の禅語は
「使用後は速やかに、お手入れをしてお片付け下さい」ということである。
日常生活においてもよくよく浸透している事柄ではあるが、
小さいこととして、ないがしろにされやすい。

世界は有限である。
世界中にある資源も、人生の時間も。
吹毛は名剣のことであり、私達自身のことを指している。
仏様と同じ心を持つ各人が、
常にそれを失わないように自分自身を磨き続けなさいということである。

運動が身体にいい、食事管理で長生きできる。
合点合点と急に思い立って、実行したところで、
すでに息切れ、動きも鈍い。
それでも、今が一番若く、今やらなければもっと辛い。
たからこそ、「急に」須らく磨すべしなのである。

井底種林檎
せいていにりんごをうゆ

井戸の底に林檎を植えても、
実を結ぶことはない。

今年4月の日照時間が例年の5分の1くらいだそうだ。
これだけ雨が続くと、憂鬱な気分になっている方も多いのではないだろうか。
私としては、最近植えた植物達がとても気にかかっている。
お庭の都合上、やや日差しが少ない所にも、
無理やり植えているものもあるので、
この日照不足で危機的状況なのかもしれないが、何ともしようがない。
夜は雨でもいいから、昼間だけでも晴れて欲しいと自分勝手に祈っている。

さて、今月の禅語「井底に林檎を種ゆ」である。
先に書いたように、井戸の底ではリンゴは実をつけないという意味である。
至極当然である。日差しは届かない。水も切れない。
まったく良縁に恵まれていないのだ。
持っているすばらしい素質は、完全に眠ったままとなる。
また、発芽できない分を見越してか、
親林檎は井底の林檎以外にたくさんの種を残したことだろう。
だが、井底の林檎にとっては、他の林檎は分からない。
この林檎が自分だったら、何ともやりきれないことだろう。
何しろ、手も足も出せない。運命を切り開くことができない。

林檎は極端な例だが、
私達もこの林檎と変わらない。
自分とは関係のないところで動いているものが、
偶然廻ってきただけだからだ。
私達は、自分では何ともならない世界に身を委ねている。

この文章を書き始めた時は、ずっと雨だった。
久しぶりに続きをと思った今は、
快晴が三日も続き、とても爽やかである。
導入部分が全く無意味になってしまったが、敢えて残すことにした。
晴れて欲しいと祈っていたのに、
晴れたら晴れたで少しがっかり。
まったくもって自分勝手な生き物だ。

飯裏忽逢砂一粒
はんりたちまちあうすなひとつぶ

ご飯の中に、一粒の砂。
油断すると痛い目に。
これくらい些細なことだ、この程度で十分だ
なんて甘く見ていると、大きな事故を引き起こすものだ。
あぁ、恐い恐い。

先日、のほほんと歩いている途中、
何気なく曇り空を見上げた。
目にポツッと入ってきたので
雨でも降ってきたかと思って数秒後、
痛い、痛い、目が痛い。
しばらくして、動かなくなった小さな虫が涙とともにでてきた。

かつてお釈迦様の時代において、
雨期の間、修行僧は寺にこもって修行した。
理由は、外出すると草木虫などを踏み殺すおそれがあったからである。
雨期には雨期に、乾期には乾期に相応しい修行方法を選ぶ。
誠に堅実な方針だが、
そうやって割り切れない時もあることだろう。
事故に遭う可能性があっても、
車を使わなければならない事情もあるし、
歩きなら安全かというとそんなこともない。
絶対大丈夫という根拠のない自信には気をつけたほうが良い。

最近、麺の中から虫一匹がでてきて、大きな議論をよんだ。
回収された商品は廃棄処分か、飼料になったのか分からないが、
費やした労力とエネルギーが消えて、
無駄な二酸化炭素が増えたことは確実だ。
そして、当事者の気分を害し、他の消費者に不安を与えたのも確実だ。
この企業は異物対策を精一杯やったのだろうか?
己の慢心にこそ、危険があるのだ。

失敗や間違えは必ず起こる。
悲しいことに過去には戻れず、やり直しもきかないが、
新しい道を進むことができる。
また、事件や事故は、自らの意志に関係なく降り注いでくる。
何事も明日の我が身と思いながら、一度きりを大切にしていきたいものである。

能使得爺錢
よくやせんをつかいえたり

最近、相続や贈与に関する法律が変更となって、
ニュース等でよく耳にする。
きっと、経済の好循環を実現するための施策としても、
増税としても適当なものなのだろう。
その良し悪しの判断はできかねるが、
将来的に多くの人々が、日本はよくなったと思えることを願う。

さて、今月の禅問答には、相続・贈与っぽい禅語を選んでみた。
能く爺銭を使い得たりとは、
立派にお爺さんの銭を使い切ったというところである。
禅語では金銭を例えとして使っているが、
師の持つ法や教といった財を、
完全に体得し、我物にしたということになる。

自由自在に使えるといっても、自分勝手ではいけない。
同時に託された願いも大切にしなければならない。
私達は、一つの経由地であり、残すべき物を未来に届ける責務がある。

また財とは、有り難い教えや稀有な技術だけとは限らない。
何しろ私達は、本来何も持っていない。
空の器を得て、いろいろな物を取り込んでいっただけである。
成長段階で、家の外の師に出会い、
別のものを受け取ったことだろう。
そうやって組み上げた自分は、
よくよく財を使いこなしているだろうか?
行動力、決断力、一風変わった嗜好だって、どれも財である。
その良し悪しを、偏った目で判断することなく、
使い方一つで、最高の道具となることを知るべきである。

兎馬有角牛羊無角
とめにつのあり ぎゅうようにつのなし

今年の官制年賀葉書の12年かけた遊びには、とても驚いた。
思い立って行動に移してから、それが実を結ぶには、とても時間がかかる。
と同時に、小さな種でも、花開けばなかなかのもの
ということを再確認させてもらったことが非常に有難い。

さて今月の禅語として、
羊を主人公に探してみたのだが見つからず、
4人ユニットでの登場となってしまったが、ご容赦願いたい。
選んだ禅語は、「兎馬に角有り 牛羊に角なし」である。
アレッ?と思うことだろう。
通常であれば、逆になるはずだからだ。
有るはずのものには無く、無いはずのものに有る。

ところで、「通常」というのは、不思議だとは思わないだろうか?
何故ならば、諸行無常が絶対の真理だからである。
変わらない毎日などありはしない。
起きて、食べて、働いて、寝ることも、
最初からできることではなく、いつまでもできることではない。
成長も老いも同じ速度で、同じ方向に進んでいる同じものである。

この禅語は、名相に惑わされてはいけないことを説いている。
牛馬、生死、男女、山川、違って当然、だけどそれぞれは等価値で同じように貴い。
自分の偏った目で、善悪、高低、大小など余計な添加物を加えて判断するのではなく、
真実の姿を捉えなさいという教えなのである。

これから、ひつじ年の始まりである。
これを機に、一つ新しい種を蒔いてみたらいかがであろうか。
思いのほか、立派な木に育つかもしれない。

皮膚脱落盡唯有一眞實
ひふだつらくしつくして ただいちしんじつのみあり

12月6日の夜に坐禅会を行った。
今年の初雪であり、しかも積もる程の雪であった。
天気ばかりは仕方ないとつくづく思うが、
こんな雪の中であっても、わざわざご参加して頂いた方には
とても有難く思う。

坐禅会の時間は約1時間半だが、
本尊様への読経や、坐禅の説明もあって、
坐っている時間は、35分となる。
僅かな時間だが、有用な時間となったことだろう。

私達は成長するに当たって、
いろいろなものを身につける。
言葉を操り、考えるようになる。
それが、本来の自分を曇らせる。
重ね着していくように、厚い壁を作り上げているのに、
それを自分だと信じて止まない。
あるいは、これが自分だと言い聞かせているのだろうか。

坐禅は、それを捨てゆく作業である。
音のない空間、景色は動かず、あるのは息をする身体のみ。
吸って吐くだけの一個のかたまりがあるだけである。

皮膚脱落しつくして、残るものがたった一つ。
そのたった一つに気付くのが坐禅である。
余計なものを脱いで脱いで脱ぎ捨てて、
確かにあるといわれている真実に辿りつきたいものだ。

葫蘆棚上掛冬瓜
ころほうじょうにとうがをかく
11月も中旬に入り、落ち葉が目立ち始めた。
さっと掃いてしまえば、すぐに綺麗になるのだが、
「落ち葉がいいんだ・・・」とかなんとかと
残念がる人が時々いらっしゃっるので、
なかなか悩ましいところである。

さて、落ち葉と言えば、
「最期の一葉」を思い出す方もいるのではないだろうか?
窓の外に見える葉がすべて落ちたら、
死んでしまうと思っている人がいたけど、
どんな風雨が吹き荒れても、
その葉っぱは落ちることがない。
何故ならそれは「命を懸けた最高の絵だった」からというお話である。

今月の禅語は、上のお話に良く似ている。
葫蘆は、「ゆうがお」のことで、主に干瓢の原料になっているウリ科の植物で、
冬瓜は、「トウガン」のことで、よく煮物で食べられるウリ科の植物である。
どちらも薄緑色で固く、抱き枕を短くしたような形で、外見はそっくりである。
語句全体の意味は、ゆうがおの棚にトウガンを吊るすことに対して、
似た物で誤魔化しても駄目だぞということになる。

上の二つは、
関係ない誰かの為に行ったのか、
かわいい自分の為に行ったのか、
その差だけしかない。
そして、私たちの多くは、ある一方を称賛するのではないかと思う。
残念なことに、それを価値あるものと認めつつも、
ほとんどの選択で、別の答えを選んでしまうものだ。

誰もが、自分というものがこの上なく大切である。
ここでいう自分とは、自分一人の身体とは限らない。
例えば、自分の家族と他の家族、自分の会社と他の会社、
自分の町と他の町、自分の国と他の国など。
問題の大きさや状況に応じて変わるだろうが、
自分を含むカテゴリーとそれ以外に分類しては、
自分側を守ってしまう。
自分が大切なのだから、仕方のないことなのだ。

ところが不思議なことに、カテゴリーを大きくすると、
さっきまで赤の他人だった人も、
どんどん自分のカテゴリーに入ってくる。
禅語の中で登場した、「ゆうがお」と「トウガン」。
我が身かわいさに誤魔化したかもしれないが、
そんな細かいこと言わずに、
同じ「ウリ」と思って許してやってくれ、と願いたいものである。

そういう優しさを見せてくれたら、
こっちだって、ちょっとは広い心になれるような気がする。
そのうち気分良くなって、誰かの為にと善いことをしたくなる日が来るに違いない。

只見溪回路轉不知身在桃源
ただたにめぐりみちてんずるをみて しらずみのとうげんにあることを

お彼岸になると、彼岸花で池が真っ赤に染まる。
この彼岸花は、とある檀家さんが、
一人でこつこつと植えて下さったもので、
その方は、もう亡くなってしまったが、
ここにいるよと声を上げるかのように、一斉に花を咲かせる。

今年は、その彼岸花をNHKさんが放映したため、
普段はあまり人の訪れることのないこの大智寺に、
大勢の参拝者がいらっしゃり、手にした大きなカメラで、
彼岸花だけでなく木々や鐘楼など、いろいろと撮影されていた。

さて、今回の禅語の意味は、
ただ、美しい眺めに我を忘れて、
自分が桃源郷にいることに気が付かないという意味である。

素敵な景色を無我夢中に見る。
対象に目を奪われ、意識のすべてを持っていかれる時、
桃源郷の真っただ中にいるのである。
良い景色が桃源郷ということではない。
それ以外が目に入らないところが、三昧という最高の時なのである。

ファインダー越しに、彼岸花を本気で見つめる時、
自分の足元さえ見えなくなる。
世界からすべての雑音が消える。
そんな時間を過ごせた方は、実に幸せであろう。
と同時に、当の本人は自覚がないだろうから、実に勿体ないとも思う。

夜來風雪惡木折古岩前
やらいふうせつあし きはおるこがんのまえ

風雪は時期外れだが、故あってこの語を選ぶ。

8月中は幾度となく台風が襲来して、各地に多くの爪痕を残した。
ここ大智寺でも風が吹き荒れ、
参道の杉の木が真ん中からブチ折れた。
雨が収まった後すぐに、道を塞いだ木は片づけたが、
その時、巻き込まれて倒れた石灯籠は今もそのままなっている。
参拝なられた方が、倒れている灯籠を見て、
地震?猪?などいろいろと心配してくださるが、
目線の上にある折れた木にはあまり気付かないものである。

ということで、単に木が折れた驚きを伝えたかったから、この禅語を選んだが、
この語の意味は、
昨夜の大風で木が折れたところから、
鉗鎚(師匠が弟子を厳しく教え導くこと)で妄想が一掃されたということである。

修行僧は夜空に雲がかかったような迷いの状態から、
パッと目覚める日をひたすら追い求めているのである。
師の厳しい教えに導かれ、その者の機が熟していれば、
暗雲を全て吹き飛ばして、眼前には円い月が浮かんでいることだろう。
風が強ければ強い程、その効果は絶大かもしれない。
ただ木は折れるし、それまで何かと辛い思いをすることは間違いない。

9月に入り穏やかな天気が続いている。
蝉の鳴き声は相変わらずだが、
風はとても乾いて涼やかになり、夏の終わりが味わえる。
前だけを見て、ずんずん進むのも結構なことだが、
時には、上を向いたり、下を向いたり、横を向いたりすると、
ひと味違った物に出会えるかもしれない。
とりあえず、昨日はすばらしい満月だったと思う。

試露爪牙看
こころみにそうげをあらわせよみん

最近世界の雲行きが怪しい。
ウクライナでは飛行機が撃墜され、
イスラエルやイラクでは空爆が行われ、
世界のあちらこちらで戦闘が繰り広げられている。
誰もが戦争なんかしたくないのに、
事に至った背景や自国の立ち位置を考え、
「許される戦争」と「許されない戦争」に分け続け、
時に追随し、時に非難している。
戦争をなくすために、人類はどうすればいい?
そんな問に対して、答えはあるのだろうか。

さて、今月の禅語は、「試みに爪牙を露わせよ看ん」である。
能ある鷹は爪を隠すという言葉があるように、
「爪牙」は、己が力量という意味である。
さぁ、本来の力を見せてみろということである。

臨済宗で用いる教えの本において、
禅問答の本文に入る前に、
「○○とはいかなるものか?しっかり参究せよ」とか、
「例をあげるから、よく見なさい」とか、
学人を鼓舞する言葉がついている。
この禅語も、まさにそのような物であり、
公案に取り組む者に贈る餞であろう。

私達は、分からないことだらけである。
そして、次から次へと問題を起こしてばかりである。
ただし、私たちは先人達の体験や知識、その記録を持っている。
どうして、そういう道を選んでしまうのか?
何が足りなかったから戦争になったのか?
今すぐ答えを出せなくても、
いつか人類全体の爪牙を見せられる日がくると信じたい。

醍醐毒薬一時行
だいごどくやくいちじにぎょうず

醍醐は、最高においしい乳製品のことで、
何段階もかけて作られる完成品である。
毒薬は、そのものずばり死に至らしめる毒であることから、
最高と最悪を同時に処方されたということだろうか。

失われた20年から脱却するために、
今まさに、アベノミクスという名のもとに
いろいろな手段が講じられている。
かつて『痛みに耐えて』の号令に準じた国民に対して
今度こそ、的確な処方箋であって欲しいと願う。

さて、醍醐と毒薬はまったく違うものであるが、
禅を教えるという処では同じである。
その言葉、その教えを、
取り込む力がある者には、最上級の味わいとなり、
解読できない者は、自らの力量を知って傷つくだけである。

この禅語の出典元に、
「ご飯を食べに来なさい」と弟子達に笑い踊りながらいっている和尚について、
「あのように言っているが、優しさではないぞ」と解説している部分がある。
ではどういう意味かと、ある僧が別の和尚に尋ねたところ、
食事を通して仏様の功徳を喜び、褒め称えているようなものだと答え、
最後の解説では、金毛の獅子ならば、簡単な問題だろうと結ばれている。

醍醐と毒薬を一時に行すといっても、
行じたのは、傷つけるためでなく活かすためである。
金毛の獅子になるよう、導くための一言である。
「ご飯を食べに来なさい」とは、弟子達への見かけ上の優しさではなく、
自ら仏様の心、慈悲の心を実践し、
弟子達自身に、仏様の心を持っていることを気づかせたいという、
まったく別の優しさなのである。

何かを成し遂げるためには、
大きな痛みを伴うかもしれない。
時には劇薬も必要なこともあるだろう。
だからこそ、うわべだけの美辞麗句より、
必ずよくなるという信念を持って行動するべきである。
その時、毒薬が醍醐に変わる瞬間となる。

百尺竿頭坐底人
ひゃくしゃくかんとうにざするていのひと

竿頭は、さおの先端である。
また百尺とは、とてつもなく長いという意味になるだろう。
つまり百尺竿頭は、
困難な道のりの先にある関門ということだ。

近々、ニホンウナギが国際自然保護連合の絶滅危惧種に指定されるとのことだ。
完全養殖に成功し、稚魚不足も今年は回復というニュースがあったのだが、
根本的な解決からほど遠いということに気づかされる。
それでも、可能性がない訳ではない。
たゆまぬ努力こそが、解決に近づく唯一の道だからである。

さて、世界や社会における難問は山程あるが、
禅における関門は、『悟』につきる。
すなわち百尺竿頭とは、
長い長い修行を積み重ね、悟ったということだ。
明星、雨音、獅子吼のような何らかのキッカケ(縁)を通して悟った後は、
霧が晴れたように見るもの聞くものすべてが新鮮に映ることだろう。
やっとのことで辿り着いた境地ゆえに、
これで十分という状態に陥りやすいのかもしれない。

だからこそこの禅語は、
世界を一人だけで味わい、何もしない者を
坐する底の人と戒めるのである。
向上を極めた者こそ、その場所に留まってはいけない。
未だ悟りを求める人々を、教え導いていかなければならないのである。

今、一流の技術者達が、世界へと活動の場を広げている。
その姿はまさに、向上を極めた者のあるべき姿ともいえるが、
誰にでもできることではない。
簡単にできることでもない。
とてつもなく難しいことだからこそ、
それに憧れ、続こうとする次なる者を育てることになる。
また技を受けた側は、それを飛躍の糧とし、新たな技を生むことだろう。

技術にしろ、知識にしろ、財にしろ、
溜めこんで、溜めこんで、溜めこみきったら、
徹底的に吐き出さなければ、動きのない世界になってしまう。

今日親聞獅子吼他時定作鳳凰兒
こんにちしたしくししくをきく たじさだんでほうおうじとならん

いつの日にか、弟子達が鳳凰のように大成することを期待しているという意味である。

5月11日、岐阜県史跡『獅子庵』の落成式が行われた。
獅子庵は、俳人各務支考の住居跡である。
支考の別号である『獅子老人』にちなんで、
その一派を獅子門という。
今月は、獅子庵落慶記念として獅子に関する禅語を選ぶことにする。

獅子は百獣の王といわれ、その咆哮は他者を圧倒することから
獅子吼は、お釈迦様の説法の意味がある。
弟子を育てる禅の師家の鋭い言行もまた獅子吼に等しい。
ある時は、涙が出るほど弟子の鼻を捻り上げ、
ある時は、徹底的に打ちのめす。

師家は弟子に悟らせるため、あの手この手を使う。
「痛み」は、その中の一つでしかない。
今は、ひどい仕打ちに分類されそうだが、
昔の書籍の中では、優しい人だとか
老婆心切が過ぎるなど、まったく反対の評価である。

どんなにすばらしい手が差し伸べられても
結局のところ、自分に眼がなければ掴むことはできない。
登れない断崖絶壁と同じである。

人生で降って湧くイベントは多々あろうとは思うが
試練となるか、チャンスとなるかは、常日頃の習慣によって決まる。
苦労して功をを積まなければ、試練は試練のままにすぎない。

さて、優れた俳人であった支考もまた禅師家の如く
多くの弟子に獅子吼を浴びせ育てたことだろう。
三百年の時を経て、当時の建物が風化しても
その技や心は脈々と受け継がれ、
今日、その象徴たる獅子庵の再興という大行事を成し遂げられたことを、
心からお祝い申し上げる。

山櫻火?輝山鳥歌聲滑
さんおうかえんかがやき さんちょうかせいなめらかなり

今月の禅語は、まさに春花春鳥の山の景色を素直に表した言葉である。
春には春の姿が自ずとあることを示している。

4月6日から20日にかけて美濃西国三十三観音霊場が総開帳された。
お寺としてもお参りされる方を出迎えるため、
その期間中は、ずっと本堂の前で過ごしていた。
出迎えるというと聞こえはいいが、
実際は、参拝者が来ることを首を長くして待っているのである。
これがとにかく長く、ほとんどの時間
ホトトギスに相手していただいたような気がする。
普段は鳴き声だけだが、時には近くの木に止まって
その姿を見せてくれた。
もう一つの楽しみは、本堂前にある大きな山桜だったのだが、
今年は花をつけなかった。誠に残念でならない。
それでも山の上の桜は、満開となり優しいピンク色を見せてくれた。
この総開帳は、お寺の人間が春の風情を楽しむサービス期間なのである。

この2週間、それなりに賑やかだったが、
総開帳が終われば、また静寂な日常に戻ることだろう。
道路から離れているので、車の音もほとんど聞こえない。
心休まるひと時をお探しならば、是非お参りいただければと思う。

最期に、「さくら」をテーマにした禅語を選んだのには、
ちょっとした宣伝をしたかったからである。
岐阜市city版 咲楽(さくら)という情報誌に、大智寺が掲載され、
写経会と坐禅会の案内が載っている。
岐阜市在住の方で、お時間があるようならば、是非そちらもご覧いただきたい。

燈下不剪爪
とうかにつめをきらず

その昔は蛍光灯もなく、
夜はわずかながらの灯りしかないため薄暗くて危ない。
慎み深い人は、あえて危険な事をしないものである。

「夜に爪を切ると・・・」というような事を聞いたことがあるだろうか?
どうしてそう言われているのか
はっきりとした理由は分かっていないらしい。
「暗くて危ない」というのも諸説ある中の一つである。

注意しながら事に当たることで、多くの災難が防げるのだが、
どこかで手を抜いて痛い目に遭うことがしばしばある。

私事ではあるが、
本日、薪を割っていたところ、
とある一本が、完全に割れずに、中途半端に繋がった状態になったしまった。
引っ張れば離れると思ったが予想以上にしぶとい。
鉈があれば簡単なのだが、あいにく手元にはない。
ついつい、「振り回してぶつける」というしょうもないアイデアを実行し、
結果、木は割れず、手に青たんが二つ増えただけだった。

「鉈を取りに行く」たったこれだけの行動を何故躊躇したのか?
振り回すほうが楽だと思った。
しかも、簡単に割れるような気もした。
当然、怪我をするつもりなど毛頭ない。
ところがそう都合よくいかなかった。
慎み深く行動していれば、青たんを防げたことだろう。

仏教には因果という教えがある。
原因があって、結果がある。
自分の行動、自分以外の者の行動、自然現象など
すべてのものと繋がった上での、結果が生まれるのである。

先の震災から丸3年になる。
地震という自然現象を防ぐことはできない。
個人的な対策で抗えるような大きさでないことも分かる。
それでも、自分の行動は、結果を導く大きな要素の一つである。
東海地震はいつ起こってもおかしくないと言われている。
準備している防災グッズの中を開いて、確認するべき時であろう。
また緊急時の行動について、今一度考え、整理しておく必要がある。
何もしないという危険な道を敢えて選ぶことはない。

一把骨頭捧去後不知明月落誰家
いっぱのこっとうささげさってのち
しらずめいげつたがいえにかおつ

一把の骨頭は、この自分の身体を指している。
前半部分は、この身体をお返しした後ということなので、
「自分が亡くなった後」になる。
後半部分は、もはや自分には知る由もないが、
月はどこかの家を照らすだろうということになる。

2月15日はお釈迦様が亡くなられた日である。
お釈迦様が今まさに涅槃に入られる時、
弟子にお釈迦様亡き後、これからは何を頼りにしていけばいいかと問われ
「自らを灯とせよ、法を灯とせよ」と教えられた。
自らといっても個人的な意見や考えということではなく、
自分の中にある仏の心と、真理(法)を灯にしなさいということである。
あらゆる物が移ろい変化していく世界で、
お釈迦様も亡くなり、誰もがいずれ死を迎えるが、
仏心と真理は、変わらず存在するのである。
それらを灯として生きていけば良いから安心しなさいという
お釈迦様の最後の教えである。

この涅槃の逸話と重なっているように感じたので、今月はこの禅語を選んだ。
月は、仏心や真理の喩えであり、その明かりは、皆を照らしている。
お釈迦様が教えられた仏法は2500年後の現在にまで伝えられ、
今生きている人々の心の支えとなっているのである。

從前汗馬無人識只要重論蓋代功
じゅうぜんのかんばひとのしるなし
ただようすかさねてがいだいのこうをろんぜんことを

今年のNHK大河ドラマは「軍師官兵衛」。

「弱い者は虫けらのように踏み潰され、
 強い者だけが生き残る時代。
 人はそれを乱世と呼ぶ。
 戦は果てしなく続き、
 人々は乱れた世の終わりを只祈るしかなかった。」

という強烈なメッセージから始まった。
この先どんな展開になるのか楽しみである。

さて、今年は午年ということで馬の禅語を選んだ。
この禅語の意味は、
かつての乱世を平定した辛苦を知る者がいないのだから、
せめてその比類なき功労を重ねて論じていくことでかつての辛苦を知るがよい
ということだ。

大河ドラマはまるでこの禅語のようである。
今では想像もつかないような暮らしがそこにはあり、その辛苦を知る者はいない。
そんな大昔の話を、多くの関係者が努力して形にし懇切丁寧に教えてくれる。
今年もしっかりと学んでいきたいと思う。

ちなみに大智寺の創建は、官兵衛登場より約50年前の西暦1500年である。
このお寺も500年間順風満帆ということはない。
歴代の祖師方や関係した人々の辛苦の上で、
ようやくと今に至ることができている。
これから新しい年が始まるけれど、今までが「ゼロ」になるわけではない。
わずかながら新しい部分を積み重ねていくだけである。

莫嫌冷淡無滋味一飽能消萬劫飢
きらうことなかれれいたんにしてじみなきことを
いっぽうよくまんごうのうえをしょうす

冷めて、淡くて、栄養もおいしさもないからといって嫌ってはいけない。
一度満足するまで食せば、けっして飢えることはない。

今月の禅語は、仏教について非常によく表している言葉だと思う。
とっつきにくいし、どんな効果があるのかも分からない。
しかも不思議なことや特別なことは何一つ教えていないのである。

まさに冷淡にして滋味無きことで、仏教は当たり前の事ばかり教えている。
例えば「諸行無常」という有名な言葉がある。
世の中のものは常に変化し、永久不変なものはないということである。
今生きている人は、200年前にはいなかったし、
200年後にもいないことだろう。
千年、万年を生きる木でさえ、少し長い尺度で考えれば、
やはり過去にも未来にもない。
仏教はそんな誰でも分かる普通のことを教えているのである。
この教えをじっくりと味わって、我物とすることができれば、
心の安らぎを得ることができるとこの禅語は説いている。

仏教を我物にするために、仏様の心に少しでも近づくために
禅宗という宗派が選んだ手段が坐禅である。
坐禅もやはり、冷淡にして滋味無きことで、
唯一人黙々と坐ることは、いつでもどこでも誰にでもできることである。
そんな坐禅をどうか嫌うことなかれ。

12月7日(土)6時より坐禅会を行うので、よければどうぞ。

宿昔靑雲志蹉?白髪年
しゅくしゃくせいうんのこころざし さだたりはくはつのとし

若かりし頃、立身の志に燃えていたが、
すでに時機を逸して白髪の年になってしまったと
嘆いている様子である。

日本では、改正高年齢者雇用安定法が施行され、
65歳まで働ける企業の割合が、過去最多になったと報じられた。
「60歳まで仕事」という基準も、すでに過去の話となりつつある。

職業に限った話ではない。とある会に所属する方がこんな話をしていた。
「私は高校生の頃にこの会の会員になったのだが、
50歳になった今でも下っ端のまんまだ。」
メンバーが大きく変化することなく、
年齢構成がスライドしただけの組織も数多くあり、
80歳でも現役という方も少なくないはずだ。

ちなみにお釈迦様は80歳で亡くなるその時まで説法を続けたそうだ。
亡くなる少し前、弟子の阿難尊者に
「古車が年を経て動かなくなるよう、我も80年の歳を経て、
その古車の如くであり、近く涅槃に入る」と告げたという逸話がある。
対して今の日本人は、平均で80歳以上。
80年の歳を経ても、まだまだ動ける人が大勢いる。

本当に皆さんは運がいい。
白髪の年になっても、働ける力がある。
そして、その力を社会が必要としている。
皆さんにやって貰いたいことがたくさんあるということだ。
その為にも、是非とも適度な食事、運動、睡眠を心がけ、
その力を遺憾なく発揮できるよう努めていただけたらと思う。

話はかわるが、11月5日にツクツクボウシの鳴き声がした。
遅ればせながらなのか、先走り過ぎたのかは分からないが、
もはや彼には嘆いている余裕はないだろう。
地上に出てきたものの、他に仲間はいないし、外気はかなり冷たい。
それでも彼は、晩夏の頃と変わらない声で鳴いていた。

水不借路路不借水
みずみちをからず みちみずをからず

路に沿って水は流れ、水が流れて路を作る。
互いに作用しつつも、そこに貸し借りや損得は存在しない。

9月は水の被害が多かった。
岐阜も愛知も道路は冠水し、床上床下浸水が起こった。
数日後の台風18号によって京都嵐山も大きな被害を受けた。
私達は堤防、水門、放水路に守られ、
大雨になることも天気予報で事前に知っていた。
それでも、「何十年ぶり」の、「100年に一回」の、「想定外」の大雨が降れば
結局どうにもならない恐ろしいものであることを知る。
反対に、穏やかな時は清流として称え、
ある時は、浄水や聖水として尊び、
一切衆生を育む天の恵みと認識する。

そうやって損得勘定で、善悪に分けてしまうのだが、
流れる水は、元来無心である。
何事にも偏ることなく、ただ進んでいく。
器に収まる量を越えれば、溢れて新たな路を作り、
器に収まれば、その中に自らの行き先を委ねるのである。

私達も、この禅語の水のように、貸した借りたの世界を離れ、
今の環境という器の中で、自然体で生きたいものである。
ただ、一つだけ忘れてはいけないことがある。
水は高きから低きに流れることが理(ことわり)だとするならば、
人は低きから高きを目指すことが理となるであろう。
もし環境という器が、自分より小さいと思うなら、
迷わず堰を切って、路を作れということかもしれない。

貪看天上月失却掌中珠
てんじょうのつきをむさぼりみて しょうちゅうのたまをしっきゃくす

優しく照らす丸い月は、手に届かない場所にある。
いつも見えるのに、決して触れることはできない。
手に入らないものを望み、手に入らないと嘆き、
手に入れるにはどうしたらいいかと苦しむ。
それが宝を失うということである。

秋といえば、紅葉や、柿、栗、梨の秋の味覚、そして名月などを思い浮かべるが、
日本と言えば、「ふじやま」「にんじゃ」「すし」であろうか。
観光立国を目指す日本は、クールジャパンと銘打って果敢に発信を続けているが、
「ふじやま」だけじゃないぞとしっかりと伝えられるといいと思う。
これは国に限ったことではない。「餃子の町」や「日本の重心」など、
自らの強みや味わいを見つけて、今では多くの地域が行動を始めた。
ここ清流の国も、人の流れを作るために多くの方が尽力している。

ところが、もともとそこに住む人々は、街の宝に気付かないことも多いという。
「こんなもの(所)の何がいいのか分からない。」
それが当たり前で、それが普通だから、何の変哲もない○○となる。
だが、それがいいという人がいると、宝だったと思い出す。

町の魅力という宝なら、どこかの誰かが見つけてくれるが、
掌中の珠は自分で気が付くしかない。
元々持っているが、苔むした岩や錆びた鉄のように、
隠れている仏心である。
自分が見ようとしなければ、決して見えることがなく、
自分が磨かなければ、決して宝に戻れない。

とても心地よいこの季節、ゆっくりとした時間がとれそうなら、
月でも眺めらながら、掌中の珠を探してみてはいかがだろうか。

放下一着落在第二
いちじゃくをほうかすればだいににらくざいす

一手許せば、第二第三に落ちてしまうという意味である。

朝、目覚まし時計が鳴って、あと一分だけ、あと五分だけ、
と徐々に遅れていった経験はなかろうか?
嫌な仕事があって、明日やればいい、明日から始めよう、と言いつつ
その「明日」がなかなかやって来ない経験はなかろうか?
とかく陥りやすい状況であるが、
そのままでは、どんどん悪い方へと落ちていくと警告している。

仮に車を擦って、僅かに傷つけたとする。
もしその傷を放置するなら、
今後、多少の傷がついても気にならなくなるだろう。
その心の持ち方こそが、もっと別の問題を起こす種となる。
取り返しがつかないことだって、起こし得る。
だからこそ常に反省して、気を引き締めて、、
次は起こさないようにと心がけることができればいいのだが、
これがなかなか続かない。
意図することなく、徐々に落ちていく。

この悪循環から救ってくれるものが、記念日や節目というものである。
いつもと同じと思っている毎日を、
特別な日とすることで、新鮮な気持ちに戻ることができる。

まもなくお盆である。
一年365日もある中で、たった四、五日の短い期間である。
それでもご先祖様をお迎えする特別な期間であるとされている。
ご家族が亡くなって、一年、三年の内はよくお墓参りした方も、
徐々に足が遠のいて、お盆だけになったという方もいることだろう。
お仏壇のお花も、以前と変わってしまったと思う方もいることだろう。
そうやってすでに何手か落としてしまった方は、
今年のお盆を境にして、落ちる前はどうだったか思い出してほしいものだ。

钁湯爐炭淸凉界劒樹刀山遊戯場
かくとうろたんせいりょうかい けんじゅとうざんゆうげじょう

地獄のことである。

釜で茹でられるたり、針の山を歩かされたり、
そんなお話を聞いたことがあることだろう。
物語では、山伏、刀鍛冶、医者など
持ち前の特技を駆使して、危機的状況を克服している。
ぐつぐつと煮えたぎったお湯は、
山伏が、ぬるま湯にかえてしまう。
いわゆる対処療法である。

対して、仏教では、ありのまま受け入れる。
炉で燃え盛る炭は熱い。
どんな見方をしたところで
どんなに手をつくしたところで、熱いのは熱い。
その感覚が淸涼界である。
剣の木に、刀の山。
歩き回ればズタボロになる。
ズタボロになるしかない場所では、
ズタボロになって遊ぶのである。
何ともならないものは、何ともならないと諦めるより他ない。
心身脱落なる者には、何事も何ともないらしい。

とはいえ、大切な身体をむやみに傷つけてはいけない。
熱すぎるお風呂なら、少しの水を足して入ったほうが
お湯も自分も活きてくる。
何とかなるなら、何とかするべきである。
もっとも、その前に熱すぎないよう注意すべきだったのだが。

滿地落花春已過綠陰空鎖舊莓苔
まんちのらっかはるすでにすぎ、りょくいんむなしくとざすきゅうまいたい

今回の禅語は、
すでに花は散り、緑の屋根に閉ざされた莓苔(こけ)の情景に重ねて、
後悔の念を表している。

さて、どんな後悔の念が込められているかというと、

その昔、仏教を篤く信仰していた武帝という方が、
自分は仏教の為に多くの寺を建てたので、
どれほどの功徳があるのかと聞いたところ、
達磨大師が「無功徳」と言ったという話がある。
武帝は、「無功徳」の示すところを理解できず、
達磨は、縁がなかったとして去っていった。
その後、武帝は後悔して呼び戻そうとしたが、
時すでに遅く、達磨は江を渡って遥か遠くに行ってしまった。

そんな情景が、この禅語に込められている。

達磨大師(春)が仏の教え(花)を届けたが、
受け止めることなく散った。
悟ることのなかった武帝(舊苺苔:昔のまま変化のない苔)は、
煩悩妄想に縛られ殻に閉じこもったままである。
そして、春は去っていった。
このように捉えると悲しい禅語であるが、一つ救いもある。

春はすでに遠くにいって取り戻すことはできないが、
花は満地、つまりすべての大地を覆っている。
仏の教えは、常に自分の傍に満ち溢れたままなのだと教えてくれている。
結局のところ、春が過ぎても、かわりに夏がやって来る。
夏はまた、雲や雨という姿で、仏の教えを届けることだろう。
お釈迦様から達磨大師に法が伝わったように、連綿と続くのである。

渓聲洗耳淸松蓋觸眼綠
けいせいみみをあらってきよく、しょうがいめにふれてみどりなり

この禅語は、
余計な物を洗い流して、真実に気が付くということから、
迷いが晴れて、清浄の境地に達することを表したものである。

ここ一ヵ月の間、雨らしい雨がなかった。
近くの農家さん曰く、土がガチガチで困る。
といった会話から約一週間。
今週はよく降ったので、今頃お喜びのことであろう。

山ぎわに位置する大智寺は、
ある程度まとまった雨が降ると、水路を伝って一気に池に流れ込むため、
水音が響き、渓流のごとき感覚につつまれる。
雨を受けた苔は、鮮やかな緑色へと変わる。
千年の緑といわれる松もまた、その深い緑を現す。

そんな景色に喩え、この禅語が注意するのはカッチカチの自分。
凝り固まった視点、発想、行動を改める必要がある。

運がいいことに、日本には黄金週間という素晴らしい連休がある。
見識を広げるもよし。
美味しい物に出会うもよし。
これといった目的がなくてもよし。
とりあえず『お出かけ』を勧める。
里山ではきっと、街の人々の帰郷、来訪を心待ちにしていることだろう。

草作靑靑色春風任短長
くさはせいせいたるいろをなし、しゅんぷうたんちょうにまかす

春である。
木々に花々が咲き、お寺が鮮やかになってきた。
すでに桜も桃も満開となり、毎日浮足立ってしまっている。
そんな浮かれ調子の間に、
静かに、それでいて力強く、
石畳の僅かな隙間から、青い者達が自己主張を始めるのだ。

私の勝手な目線で区別すると、

真っ直ぐな人
根性でしがみ付いてる人
ブチッと切れる人
刺々しい人
ベタベタする人
やたらと大勢で群れている人
すぐに抜ける人

と、こんなところである。

今月の禅語は、短いとか長いとかの片寄った見方を抜きにして、
それぞれがまったくの平等であり、
違っていることが、ありのままの、偽りのない姿なのである。
そもそも、草が青色でなくても良く、赤色でも桃色でも自由であり、
それでも、皆が調和しているのが自然なのである。

護法爲心切也
ごほうはこころのせつなるがためなり

切なる思いという使い方なら聞いたことがあるだろうか?
切なるの意味は、「心からの」、「誠の」、という意味である。
突き動かされるような感情が湧き上がり、
止めることができない。
「やむにやまれぬ心」とは、ほぼ同義といえる。
その強い意志が芯となり、「蹴散らして前へ」という
力強い動きへとつながることもあろう。
もしかして?と何か思う所のあった方は、
ある番組を良くご覧になっているということだ。

護法とは、
仏の教えを守り、仏法を守護するという仏教用語である。
さて、仏法の教えを守るのは、止むにやまれぬ思いからであるといわれても・・・
??????????
ということになる。

諸行無常 諸法無我 一切皆苦 因果応報という難しい教えもそうだが、
他の人を大切に、物を大切に、自分自身も大切に、
笑顔で、温かい言葉をかけて、思いやりをもって、人の役に立って
それも仏様の教えであり、仏様の心であり、それが仏法である。
私たちには、仏様と同じ、そういう心を持っている。
当然、やむにやまれぬ心で、動くことになるのである。

あの大震災から間もなく2年。
怖さに耐え、寒さに耐え、家族を、友人を、仲間を探し続けた人々。
少しでも役立たんが為に、現地に向かっていった人々。
惨状を聞き、自分にでき得る支援を行い続けた人々。

大切な人の為なら、困っている人の為なら、
どんな苦難も蹴散らして前へ進んでいける。
この禅語は、そういう姿を映していると思う。

喪車後懸藥袋
そうしゃごにやくたいをかく

棺を運ぶ車の後ろに薬の袋をかけたところで、
もはや手遅れ、何の役にも立たないという意味である。

2月15日は釈尊が亡くなられた日であり、涅槃会と呼ばれ、
多くのお寺で、涅槃図を掛けていることだろう。
涅槃図を見ると、
亡くなられて横たわるお釈迦様の脇に、
沙羅の木があり、この木に袋が掛けられていることがある。
この袋が実は薬袋という説もあり、
「木に引っかかって届かなかった。」とか、
「引っかかった薬袋を取って届けようとしたネズミを
猫が食べて、間に合わなかった。」
という逸話がある。
一年に一度、この日しか見ることができないと思うので、
菩提寺にてご覧になられる機会があるなら、
是非お参りしてはいかがかと思う。

この語の示す当たり前の教えは当たり前故に大切である。
薬袋は役に立つ。皆ご存じである。ただ「手遅れだから」役立たない。
TPOが適当なら、その力を十分に役立てることができたのである。
本来持っている力を十分に発揮させずに無駄にしてはならない。
命も、時間も、何もかも、というところではないだろうか。


如龍無足似蛇有角
りゅうのあしなきがごとく へびのつのあるににたり

足のない龍はまるで蛇のようであり、
角のある蛇はまるで龍のようである。
もし出会ったら、その違いを見極めることができるだろうか。


去年は辰年、今年は巳年なので、
蛇の禅語をと思って探してみたが、
蛇の扱いはあまり宜しくないようだ。

例えば「龍蛇」という言葉を含む禅語があり、
玉石混交でいうところの玉と石にあたる。
心機一転したばかりなのに、
これでは出鼻を挫かれてしまう。
他には「毒蛇」を含むものがあった。
なんとなく否定されている気分になる。
そんな中、ようやくと冒頭の「蛇」に出会う。

足のない龍と、角のある蛇。
光で照らされたら同じ影が映ることだろう。
にもかかわらず、あれは龍だ。宝玉に違いない。
こっちは蛇だ。石ころに違いないと踊っている。
「龍蛇」を含む禅語と先に出会ったが、私は選ばなかった。
宝玉として受け止められなかったことが、
当にこの語が示す所かもしれない。

しっかりと受け止める。
ありがたく受け止める。
これを好機と受け止めて、今年の目標にしようと思う。


庵中閑打坐白雲起峰頂

あんちゅうしずかにたざすれば
はくうんほうちょうにおこる

この禅語は、山中閑居を示しているが、
実際に、山奥で一人静かに暮らすのは難しく、
何もかも放って、遠くに行きたいと思うことはあっても、
実行する方は少なかろう。
仕事がある。疲れが溜まる。休みくらいは休みたい。
親がいる。子供がいる。家を空けるのは難しい。
当然である。
それならば、近くだったらどうだろうか?
少しくらいなら無理をして、やってみようと思うだろうか?

何にもない所だが、庵中閑打坐する環境を調え、
今年で3年目となる大智寺の坐禅会では、
6時から7時半までの約1時間半の内、
5分、10分、25分の3回坐っていただいき、
坐禅会の最後には、テクノス三愛の臼井様より
頂戴した美濃豆乳で作ったお粥を振る舞わさせていただいた。
初めての方、毎年の方、男性、女性、お子様
それぞれにお忙しい中、大切なお時間を割いて、
参加していただいたこと、大変有り難く思っている。

会の途中で、
「皆で坐っているけれど、一人で坐っている。」と申し上げた。
隣の人を、正面の人を気にしなければ、そこには自分一人しかいないのである。
「パチッ、パチッ」と薪ストーブの音だけが響く静寂の中で、
己の時間を過ごして頂けていれば幸いである。


同行必有一智
どうこうにはかならずいっちあり

3人寄れば文殊の智慧と同じような意味である。

お天気の日に、外へお出かければ、それなりに楽しいものであるが、
もし何人かが集まって計画すれば、
「おっ!」という新しい旅のコースが出てくるかもしれない。
有名な大矢田神社さんや、華厳寺さんと異なって、
大智寺コースは、「どこ?それ?」という文殊の智慧コースの一つであろう。
コースの新発見もそうだが、実際にでかけた後も、
次の目的地や、食事、休憩、お買物などのタイミングも、
自分にはない選択肢を提示してくれるだろう。

他者の意見が満足いくものかどうかは分からないし、正しいかどうかも分からない。
それでも、試したり、乗ってみたりすることで、或いは拒否することによっても、
新しい何かが芽生えることだろう。
他者との関わりは、「自分の枠」を知るいいきっかけなのである。

赤っ恥の勘違いかも知れないけれど、ブレーンストーミングという手法は、
新しいアイデアを生み出すことのできるツールらしいが、
同行必有一智と同じ気がする。
皆が思いのままに、あるテーマについて意見をポンポン出すとのことで、
他者の意見に、自分の意見をのせたり、
他者の意見をきっかけに、新しい視点を思いついたりすることで、
新しいアイデアにつながるそうだ。

はや11月となり、紅葉の季節の到来である。
この季節は、お寺が最もにぎやかになる。
文殊の智慧に導かれていらした方々に出会って、
私もまた、一智に出会うのだろう。

四海香風從此起
しかいのこうふうこれよりおこる

すごい力量を持った者が世に出てくれば、
世界中が心地よい空気に包まれる

先月末、台風17号が接近する中、
修行時代の先輩が晋山式を挙行なさった。
晋山式とは、山にすすむという意味で、
山とはお寺のことを指しており、
例えば大智寺の場合、雲黄山である。

式の流れや内容については、
地域やお寺によって、多少異なるが、
「杖を持って、本堂に上がり、晋山の偈を唱える」という部分は、
必ずあるのではなかろうか。
ちなみに晋山の偈とは、
晋山する和尚が、己の境涯を七言絶句の形式で、
その場に集う人々に向けて、唱えるものである。
要するに、
杖を持っているのは、長い行脚の末に、このお寺にやってきたということ、
偈を唱えるのは、自分はこんな人間であるということを披露するためである。
当然、偈を聞いた近隣の寺院や地域の人々に、
自分がどの程度の力量を持っているが判断されることとなる。
『四海の香風 此より起こる』
自分以外の者に、この語を言わしめたら、大したものである。

といっても、まだ若く経験の少ない新命和尚に、
そのような評価はしないのが普通だろう。
しかし、誰にそう思われなくても、
晋山する和尚が、私はこの程度まで達している、
このお寺を、ここにいる人々と共に必ず護っていく、
そう思わなければいけないのかもしれない。

晋山式は、新しい風が生まれる、お寺の一大儀式である。
折しもその日は、500便超の飛行機が欠航し、新幹線の運休が相次ぐなど、
日本中で風が吹き荒れる一日となった。
そんな中、無事円成なされたこと、関係方々様に心よりお祝い申し上げたい。

水自竹邊流出冷風從花裏過來香
みずはちくへんよりりゅうしゅつしてひややかなり、
かぜはかりよりすぎきたってかんばし

雨水は長い時間かけて地下を通り抜けてくる間に、
冷たくて気持ちいい存在になっている。
風は花の横を通り過ぎた時に、その香りを取り込んで、
自身でいい香りを周囲に振りまく存在になっている。
そんなところから、
辛苦を経たからこそ、味わいがあるのだという意味となる。

3日間の子ども合宿も無事終わり、ほっと一安心である。
お経と坐禅の修行だけでなく、
毎年の盆踊り、俳句作り、高齢者疑似体験、
さらに、今年は舞妓さんの踊りと和楽器の鑑賞、
茶道、そして落語に触れてもらった。
無理なお願いにも関わらず、快く協力して下さいました
鳳川伎連様、裏千家岐阜支部大西教授様、岐阜大学落語研究会様、
そして、3日間子ども達と一緒に過ごし、
合宿を支えてくれた岐阜女子大学等のボランティアの皆様、
また今回の合宿に力添え頂いた多くの方々に、心から御礼申し上げる。
願わくば、参加した子ども達には、
多くの人が、みんなの為にと思って、
協力してくれたということを、覚えていて欲しいところである。

ちなみに、子ども合宿に参加したからといって、
強く逞しく、しっかり者になって帰るということはまったくない。
その点に関して期待されても、申し訳ないとしか言いようがないが、
「○○したいけど・・・我慢我慢。」
「やりたくないけど、仕方がない。」と、
いろんな場面で、自分自身を律しようとしている子ども達の姿を
垣間見ることはできた。

子ども達にとって、大智寺で過ごした3日間は、長い人生のほんの僅かな一時、
記憶に残るかどうかも怪しいぐらいの、小さな粒だろう。
日常の出来事、楽しいイベント、ビックリ事件、危機的状況など、
これからも、形や大きさ、衝撃の異なるたくさんの粒、或いは壁にぶつかることで、
みんな味わいのある大人へと成長していくのだろうと思い、この禅語を選んだ。

私にとっても、この3日間は、楽しさと大変さを味わうことができた上に、
「また合宿に来たい。」「来年はもっと頑張る。」
そんな喜びの言葉と笑顔を受けることになり、二度美味しい合宿となった。
その数日後、合宿に参加したある兄弟から御礼の絵手紙まで届き、
おかわりまで頂戴して、本当にご馳走様という気持ちで一杯である。

鏡藉重磨瑩金須再煉精
かがみはじゅうまするによってかがやき
きんはすべからくさいれんしてせいなるべし

「オリンピック」、世界の頂点を競う大会。
出場することができるだけでも快挙であり、
その国、地域、会社、学校の英雄である。
世界中の人々が、その英雄が勝ち抜くことを、
期待し、願って応援していることだろう。

今日の禅語は、「世界の頂点で、最高の自分を出す」
そのことを追い続け、修練を積んできた人々を表していると思い、選んだ。

鏡は磨くことで輝き、金は、精錬することで純度が上がる。
それは分かっているだろう?だったら重ねて磨け、再煉しろと説いている。
「重ねる」と「再び」が、この禅語の重要な部分で、
何かを得ても、歩みを止めてはいけない。今得たものが、最高と思っても、
さらに目指すべき世界は広がっている。頂上はないんだということである。

そんなことは百も承知で、鍛錬してきた選手だからこそ、
この最高の舞台に立つことができているのだろう。

ちなみに多くの人が一度は耳にしたことがあると思うが、
「足るを知る」という言葉がある。
今月の禅語と、まるで正反対の意味に思えてしまうのだが、そうではない。
「鏡を重磨する」は、不足を嘆く言葉ではないからである。

この結果には、満足している。それでも今よりももっと努力するれば・・・、
必ずもっともっといい結果がついてくるはずなのである。


地肥茄子大
ちこえてなすだいなり

この禅語の表すところは、、
よく肥えた土地で、りっぱな茄子が実っている様子である。


夏になると、畑をやっている檀家さんに、
ナスやキュウリをいただく。
とってもありがたい。、
何処で誰が育てたかもはっきりしている。
しかも、いつだって新鮮で、
さっきまで畑で実ってましたという超特急の産直である。
感謝しながらしっかりと、地産地消をさせていただく。

さて、「地肥えて」といっても、
自然に、そしていつまでも土地が肥えているはずもなく、
そこには、長い年月をかけて、
土地を耕し、草をひき、世話している人がいるからである。
良き稔りは、良き縁を結んだ上にあるのである。

この禅語は、「ナス」に限った話ではない。
といっても、「じゃがいも」や「トマト」ということではなく、
「偉大な師や教育者の下には、優秀な弟子や学生が育つ」ともとれるのである。
長い下積みと修行、さらに多くの経験を通して、練りに練られた者の下では、
それを引き継げる程の逸材が、本物として育つのである。

耕す畑を、自身とすると、耕す者は、誰になる?
耕す畑を、自身とすると、耕す道具は、何である?
次から次に思い浮かぶ人は、ずいぶんといい畑になっているのではなかろうか。


栴檀葉葉香風起
せんだんようようこうふうおこる

栴檀は香気のある樹木のことである。
その葉が揺れて、風がさやさや香る様子である。


サクラの花が散り、暖かな風の季節と思いきや、
はや夏が来たのかと思っていまうほど早い変化に驚いている。
たくさんの雨を受けた苔は、生き生きと輝き、
モミジの若葉が、待ってましたと大智寺の庭を緑色に飾っている。

この季節、庭を歩くと、いい香りがする。
香りの元へと近づけば、クマバチに出会う。
こちらにはあまり興味ないようで、私は見向きもされない。
少し滞在して、別の香りに近づくと、やはりクマバチがいる。
その後、どこに向かってもクマバチとの出会いが繰り返される。


「優れたる者は、自然と何かが溢れ出すもの。世間はそれを見逃さない。」
幾度となくクマバチと出会って思い、

「芳しい香を振り撒くことは、世に奉仕する心。」
十分香りを楽しませてもらって思い、

「暖かな春風のおかげで、初めてその価値が活かされるのか。」
雨の日に窓の外を眺めて、思った。

気分と都合で、次の瞬間にどんなふうにでも変わる。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」
「奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし・・・」


話は変わって、3回が終わった清盛は
その歴史に従えば、これから奢っていくところ。
初回から応援している身としては、視聴率も歴史に倣って欲しいものだ。
願わくば、最終回へ向けて下り坂にならないように。

石上栽花後生涯共是春

せきじょうにはなをうえてのち、しょうがいともにこれはる

セッコクは別として、
石の上に花を植えるなど、出来るはずがない。
ではあるが、そのような事も出来得るくらい心の制限が無くなった状態
つまり悟りの境涯に辿りついた者は、永遠の春であるといっている。

桜の蕾が膨らみ、間もなく花開く。
この時期は、紅葉、桃、椿などの苗木を植えるのに適しているためか、
ホームセンターのコーナーで、それらをよく見かける。
当然ちょっと心引かれる物があるが、
大きく育ったら、さぞ素敵な景色になるだろうと、
想像を楽しむに留めている。

去年は、この時期に枝垂れ梅を4本植えた。
今年、花をほとんどつけなかった梅もあれば、たくさん花をつけた梅もあった。
来年はもっと花咲くことを願いつつ、少しずつ散りゆく梅の姿を見送っている。

枝葉には、その基たる根が大切である。
根が数多のものを取り込んで、その身となし、枝葉を広げていく。
どんなに固い土地でも、自分自身が柔軟に根をはり、
それこそ石のように厳しくても、根付かなければいけない。
場所によって、環境によって、その差は大きい。
太陽サンサンぽかぽか
湧水じゃぶじゃぶドロドロ
石ごろごろガチガチ
何でこんなに差があるのかと思ったところで、梅の木は動けない。
そして、生きるためにその地に根付くのである。

石とは何か?花とは何か?栽えるとはどういうことか?
いろいろなことを考える程に分からなくなって、
今にも咲きそうな花々を眺めてしまうのである。


欲窮千里目 更上一層樓
せんりのめをきわめんとほっして さらにいっそうろうにのぼる

2月末、東京スカイツリーが、ついに完成したとのこと。
以前、NHKにてスカイツリーの番組を見たが、
その技術の高さ、難題に取り組む人々の情熱に驚嘆した。
竣工式にこぎ着けたこと、心よりお祝いしたい。

ちなみに「樓」は、「スカイツリー」のような高い物見台のことで、
今月は、この禅語を選んだ。

この語の意味は、
遠くが見たいと熱望して、もっともっと高い所へのぼる
ということである。

遠くとは、景色のことではない。
悟りの道、向上の一路は、努力からしか生まれないから
精進しろと言っているのである。
楼に上って、千里眼(全てを見渡す力)を
身に付けろと教えているのである。

低い場所では、小さなことしか見えない。
毎日訪れる現実に、悩み、焦り、追われてしまっているのなら、
千里の目を窮めるために、どこかへ出かけるのも良いだろう。
「スカイツリー」なら、きっと感動するに違いないが、
大混雑も間違いない。

また、遠くに行かずとも、
坐を組み、呼吸を調え、姿勢を調え、心を調え、
大きな空間に佇む自分を思い描く、
そんな時間を過ごせば、一層樓はすぐ近くで見つかるかもしれない。


ちなみに仏法を守護する四天王のお一人、
広目天様は、広い目、千里眼の持ち主と言われている。
甲冑姿で筆をお持ちなので、
機会があれば、お会いしてみるのも良いと思う。


梅須遜雪三分白 雪亦輸梅一段香
うめはすべからくゆきにさんぶのはくをゆずるべし 
ゆきもまたうめにいちだんのこうをゆす

梅と雪、2月を飾る景色の代表格であろう。
共に風情があって、どちらも甲乙付けがたい存在である。
この禅語が面白いのは、梅と雪が互いに助け合い、
尊重しあっていると捉えるところである。

真っ白な雪のために、
梅は遠慮して、ほんのわずかとはいえ自身のカラーたる白色を譲る。
いい香のする梅のために、
雪は遠慮して、さらに梅の香が際立つようにと自身は香を出さない。

この禅語に触れると、ほのかな暖かさが伝わってくる。

さて、私達はどうだろう?
そうやって思い返せば、気遣いあい、支えあい、助け合い
去年は、本当にそんな方々の姿を良く見る一年だったと思う。
その姿は、梅にも雪にも、勝るとも劣らない私達の見所なのである。


白雲深處金龍躍 碧波心裏玉兎驚

はくうんふかきところきんりゅうおどり へきはしんりぎょくとおどろく

雲も波も、動きのある物。
空を飛び回る雲は、時に太陽を覆い尽くし、
海を駆け巡る波は、時に荒々しい姿をみせる。

刻々と移り変わる雲や波は、私たちの感情の喩えである。
ある時は穏やかな表情で、何事もなく、
ある時は恐ろしい形相で、大事となる。

そんな私たちには、表に出す感情とは別に、
心深くに、本来の仏心を持っており、それが金龍と玉兎に喩えられる。
ちなみに金龍は太陽、玉兎は月の異名である。


浅い部分、表面の部分は、曇ったり、荒れたり、
ちょっとしたことで迷うこともあるが、
私たちの深なる所には、常に?々たる太陽があり、
    心なる裏には、恒に煌々たる月がある。
その光は、そう易々と失われることはなく、いつでも自由に輝いているのである。
それが、龍が『躍る』と兎が『驚く』と示さている。

卯年が終わり、辰年を迎えた。
玉兎が月、金龍が太陽だから、
さしずめ、月が沈み、日が昇るということである。
もはや、布団からでて行動あるのみ。
早く動けば、一日が長い。
山積みにした宿題を片づけ、今年も一年張り切っていこう


?月蓮華沸沸香

ろうげつのれんげふつふつとしてかんばし

12月である。修行僧にとってこの12月の上旬は
特別な時期で、?八大攝心といい
修行専一に過ごすことのできる有り難い月なのである。

?八とは?月八日つまり12月8日の事を指し、
12月1日から12月7日まで坐禅をし、8日の明けの明星が輝く時、
お釈迦様がお悟りになられたことに由来する。

窓を開け放ち、徹底寒い中で修行を続け、
坐を組み、呼吸を調え、心を静め、
止まった空間の中において、
精進の気迫のみが沸々として、あたりに漂う
そんな情景が浮かんでくる。

12月には蓮華は開くことはない。
にもかかわらず沸々と香ばしいと言う。
そんな常識を飛び越えた境涯にたどり着くために、
修行僧は、托鉢、作務、看経、坐禅、日常の全てに真向から取り組んでいる。
しかし?八の時だけは、山門を閉ざし、坐線三昧の修行に明け暮れるのである。
蓮華が開く(悟る)のを求めて。

大智寺でも、3日の夜に坐禅会を行ったところ、
50名程の方が参加者なされた。
つたない坐禅の説明しかできなかったが、
縁あって集まった方々が、この会を通して
何かを得たり、感じたりしていただけたら
こんな有り難いことはなく、来年も何とか坐禅会を開催と思う。


飢来喫飯冷衣添

うえきたればはんをきっし、ひゆればえをそう

最近めっきりと涼しくなり、朝晩は肌寒いくらいである
こうなると、ストーブが恋しくなり、上着も必要、
そして温かいお茶でほっと一息。

お腹が空けば、「ぐぅ~」と音がして
その合図にて、大抵の方はご飯をいただくだろう。

これが無心の働きである。
叩かれれば痛い、悲しければ泣く、嬉しければ笑うのも素直な自然の姿である

ただし、食欲の秋や味覚の秋等々、
数多くの合図に乗りっぱなしだと、
後々恐ろしい事になのは、皆さんも周知の所と思う。
「これは衣を添って着ぶくれているだけ。」
と自分への言い訳するのは、素直ではない。

大燈国師遺戒の中に、
肩有って着ずということ無く、口有って食らわずということ無し・・・とあり、
服を着て、ご飯を食べるのは自然なことではある。
だが、その為だけにここにいる(修行している)のではないだろう?
時間が過ぎるのは早いぞ、いつもいつも精進せよとお説きになられている

私たちが生きていれば、必ずと季節が移り変わる。
そしていつまでも同じと思いつつも、身体も、心も、いつまでも同じ場所にはいない。
その場所が、少しでも良い所になるように行動することが精進である。

前よりも、ほんの少しだけ、仏様を身近に感じられるように、
お仏壇に手を合わせ、心穏やかな時間を過ごしてどうだろう?

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愛山登萬仭樂水浮千舟

やまをあいしてばんじんにのぼり みずをたのしんでせんしゅうをうかぶ

お彼岸も過ぎて、涼しくなると行楽シーズンの到来である
大智寺の彼岸花も見事に咲いて、訪れる人を出迎えている

今月の禅語は、登山や舟遊びで楽しんでいる様子でもあるが、
それと同時に、山のごとき高い心と、
水のように捕らわれない働きを指している

『実るほど頭の垂れる稲穂かな』の句にもあるように、
徳行を積んで心意気高く目指す人ほど、
その行動は、素直で、自由で、謙虚になっていく

この禅語も同様に、遊びの中にも、
高い境地にたどり着く道はあることを教えている

なるほどと感じたのなら、
さっそく山や川、または大智寺へ出かけよう
今なら彼岸花が出迎えてくれる

池の周りを歩けば、
大きな花を咲かせた彼岸花が、頭を下げている
私もまた、彼岸花を見て頭を下げる

つぼみの彼岸花が、花開こうと頑張るのなら、
私もまた、頑張ろうと思う

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視之不見聴之無声

これをみれどもみえずこれをきけどもこえなし

言葉では伝えられないし、表す事もできないが、
仏心、仏性は元来人に備わっている。


8月24日に、子ども合宿の中で、
岐阜市社会協議会様のご協力を得て、
目の見えない方の疑似体験を行った。

子ども達に、『見えない』は怖いと思う?危ないと思う?と聞いたら、
きっと怖い、危ないと答えることだろう。

ただ、どう危ないか、どう怖いかは、本当のところ分からないのではなかろうか。
そして、実際に「見えない世界」を体験する。
そこで初めて、危なさ、怖さを自分のものとして味わうことになる。
この経験で、見えない方がどういう状況にあるのか考えることのできる、その助けになればと思う。

さらに今回、有り難いのは、
疑似体験のボランティアスタッフとして来た方が、
「僕は、喜んで体験教室のお手伝いをしている。」と
子ども達にお話しされたことである。
とても素直で温かいこのメッセージを、子ども達には是非大切にしてもらいたい。

今月の禅語は、
『見えない』から選んだが、
世の中には、見えないものばかりである。
何しろ、自分自身についてもさして見えていないのではないだろうか。

臨済録の中に、
『赤肉団上 有一無位真人 常従汝等諸人面門出入 未証拠者看看』
というお言葉があって
お前の中に、無位の真人がいるぞ。まだ分からないのか、見ろ、見ろと導いてくださるが、
私は未だ視れども見えず聴けども聞けずである。
それでも、仏性は誰にでもあるという言葉は、素直に受け取りたい。
ついつい、耳に痛い事や難しい事を言われると、
もう分かってる、そんなはずはない、有り得ないと壁を作ってしまうことが
多いけど、気をつけたいところである。
せっかく目に映っても、見ないのではもったいない。


俳句作り体験の時間、先生が、子ども達に向かって、
「じーっと見る、とにかくじーっと見る。すると、そのうち何かが浮かんでくる、それを表現する」と教えられた。
子ども達は言われたとおりに、じーっと見て、素晴らしい俳句を作っていた。
小学生の素直さは、見習うべきところである。
そういえば、「お風呂では泳がない事!」と何度言っても泳ごうとしていた。
とてつもなく泳ぎたいのだろう。本当に素直すぎて、羨ましい。

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両箇泥牛戦入海
りょうこのでいぎゅう たたかってうみにいる

二匹の泥の牛が戦った結果、共に沈んで
何もかもがなくなってしまう、そんな情景であろう。

この禅語に触れ、どんな姿を心に浮かべたか?
自分は一匹の牛か、2匹の牛か、それとも牛を眺めている者か。
受け取った種を如何様にも捉えることができる。


ちなみに私の場合、パッと浮かんだのが、
最近の政治。

論戦が続き、混迷が続き、停滞している
という情報は新聞を通して、伝わったが、
今の私に、早急に政治を動かすことなどできず
とりあえず節電のみ・・・。

何とかしたいが、何ともできない。
そんな力のなさに葛藤する自分の姿もまた、泥牛である。

泥はいかり、むさぼり、おろかさを指している。
私たちは、よくこの3つの感情に蝕まれて、心が濁ってしまう。

ちょっとしたことでイラっとし、
あれもこれも欲しがって、
何が正しいことか分からない

泥牛と戦うとは、自分を律すること。、
本気で取り組んだ果てに、何もかもが溶けてなくなって、
穏やかな海のようになっていく境地を説いているのだろう。


学んだものを実践していくか、そこにつきる
明日でも、明後日でもなく、まずは『今』
ちょっとしたことでイラっとしないようにせねば

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火裏蓮花朶朶開
かりのれんげだだひらく

火裏は、直接火が当たることはないが、それに近い場所
燃えさかる炎に囲まれたような所である
また、朶は、花が付いて枝垂れた様子のことである
灼熱を越えた場所の中で、蓮の花がどんどん咲いていく
そんな光景を意味しているが・・・

毎日の天気予報にて、
35℃という響きが増えた気がする
「真夏日」といえば暑い夏の代名詞だったが、
いつの間にやら「猛暑日」なるものに成長を遂げている
ここは灼熱を越えた場所なのか?

そんな猛暑が続いても、近くの畑に目をやれば、
一生懸命作業している姿が映る
毎日毎日、こつこつと仕事をしている

私の狭い世界に映らなくても、
暑い場所、危険な場所、辛い場所
多くの人が、自分のやるべきことに携わっている

裏は見えない方
その見えない所にも、たくさんの働きがある
ただ、自分の目で見えていないだけ

そして、目に見えるものは真実
百聞は一見に如かずということわざもある
ただ、見たものを真っ直ぐ正しく受け取れるかは自分次第

水上の蓮花朶朶開く、この季節
暑さに負けずに取りくめば、見えない蓮花も開くかもしれない
そのためにも、しっかりと水と栄養を取るようにしなければならない

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雨降地上濕
あめふってちじょううるおう

雨が降れば地上が潤うことは自然の姿、現成底
木々、動物、人々、皆がその恩恵を受けている

6月といえば梅雨そしてアジサイ
境内のアジサイも間もなくというところ

梅雨に入ると、カビが生えるし、
気分が沈むし、何かと困ると思うこともある

かたや岐阜新聞連載の親鸞激動篇では、
雨を求めている人が大勢いる

一方では望まれ、その一方では望まれない雨
それでも梅雨に入れば、雨の毎日

雨といえばこんな逸話がある

お婆さんには 子どもが二人
一人草履屋 一人は傘屋
雨が降ったら 草履が売れずに 心配で
晴れになったら 傘屋が売れずに 心配だ
毎日毎日心配で 毎日毎日泣いている

とある和尚が こう諭す
雨が降ったら 傘が売れ
晴れになったら 草履が売れる
毎日毎日儲かって 毎日毎日笑えるぞ


雨が降るのは自然なことで、決して逃げられはしない
それに対して、いかにプラスにとれるか否か?
ここに幸せの鍵があると教えている

ただ、鍵も鍵穴も多すぎて、正直どれがどれだか分からない
財布の中のポイントカード 枚数だけは増えていくが
その恵みは、使いこなせずに消えていくことも多い

多くの人から気遣いを受けても、素直にお礼を言えない
などなど

雨が降ると、苔の緑が映える
お茶でも飲みながら、苔でも眺めて鍵を整理してみるのもよいのでは

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吹面不寒楊柳風
おもてをふけどもさむからずようりゅうのかぜ

最近は本当に暖かい
玄関を出ると、むしろ外の方が暖かい

境内の利休梅、満天星躑躅には花がついた
花を眺めて歩いていると、蜂や蛇にもよく出会う
お寺の中は、なかなか活気づいている

お参りに来る人も増え、
今月だけで3回出会った人もいる
さすがに顔も名前も覚えた

境内を歩いて帰っていたその方も、
ご本尊様にお参りして下さるようになり、
なにやら嬉しいものでもある

春風は、縮こまって、一歩も動き出せなかった皆を、
外へぐいぐい引っ張り出す
冷たくあしらうことなく出迎えてくれる

お寺はどうだ?
自分自身はどうだ?
引きつける魅力はあるのか?
温かく出迎えているのか?


春の一場面は、
温かい人々の応援歌を真正面から受け止めて
お寺も僧侶ももっと励めよ
そんなメッセージを投げかけてくる

柳に風では申し訳ない

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人遇時平笑瞼開
ひとはじへいにあうてしょうけんひらく


今は只、これを望む。

大震災の直後、テレビを見る
画面の片隅には、予想波の高さ7mと表示
橋の上を映し続けるカメラ
程なくして、その恐ろしさを知る
何もできず、声も届かず
ただ橋が崩れない事だけを祈っていた

平穏な日常の中で、人は笑顔になる
温・和・静・平 人の望む心の在り様

しかれども、波は起こり、翻弄され、なされるがまま。
さりとて、私達は、もがくべき。あがくべき。それが生きること。
神に祈る、仏にすがる、頭を使う、身体を動かす、何でもいい。

『被災した方のために』 
托鉢にて、多く人が口にしていたのを耳にする

『被災した方のために』
大智寺も、写経会を開くことにした

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百花春至爲誰開
ひゃっかはるいたって たがためにひらく 


春の花は誰のために開くのだろう?

ちまたに時々、いらっしゃるド根性大根
彼は、その力強さを、世の人々に見せつける

一方で、雑草なる方々は、ほぼ邪魔者扱い
畑の脇ならマルチで防御、境内だったら、除草剤
しぶとい相手は、根から引き抜く
それでも、彼らは立派に育ち、あちらこちらで花開く

詳しくは知らないが、名前もしっかりついているはず


春が来たら、自然に花開く
根性のない私には、なかなか手ごわい相手だ
彼らに負けじと、引き抜かねばならない

私の修行のためか?
いやいや、そんなこと思ってはくれまい
抜かれるだの、枯れるだの、そんなことも思うまい
とにかく花を咲かせたい。その一心で咲いている
私は、君らを引かねばならない。その一心で引いている

去年の春、参拝にきた植物好きな方が、一つ名前を教えてくれた
「これは、カラスノエンドウ
 紫色の花が咲いて、エンドウ豆と同じ形の実がつくの」

鎌倉武士なら、ここから正々堂々と勝負ってところだ

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好雪片々 不落別処
こうせつへんぺん べっしょにおちず            


ひとひらの雪 風花 あるいはしんしんと
表情を変えて 狂おしく 前途を遮り…雪が降る
人の好むと好まざるに関わらず
雪は天から 迷いつつ あるいは 一直線に 
地に落ちる

そこに 何を見るのか ・・・ 見ないのか
あるいは 見えないのか

降る雪を見ていると 自分が自分で居て自分で無いような 
忘我とも幻視とも 言いようのない空間をさ迷っている そんな気分になる
そんな気分になる自分を意識しているのだから
その時点で醒めているのは確かで 自己喪失ではない

摩訶不思議な雪を見て 不落別処 と言い切ってしまう「禅」
味も素っ気も無いようだが
俗人に色々妄想を仕掛けてくる

雪は他のところに落ちない
同じところに落ちない
落ちるべくして落ちる
否応無しに落ちる…
雪は自分か 自分が雪か
雪降れば 雪に成りきり 雪として落ちる・・・

雪ひとつ見ても なかなか騒がしいのが人間の心である
雪降りの下でも 雲水に平手を打って教え諭す老師様も
なかなか忙しい

好雪片々…じっと見つめるゆとりが欲しい
不落別所…最期を案じるのも愚か
ただ
乾いた心でいては 雪も見えず
自己に拘れば執着が生じる さりとて
心の柔軟さを維持するのは自己以外のものでもなし

また自己の空なりを問い続ける一年が始まった

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拈華微笑
ねんげみしょう…            


大智寺の本堂正面に揚げられている額には
金文字の「拈華室」とある
あまりに達筆すぎるのと右から書かれている為か 
多くのお参りの人が「?」
お尋ねのたび、拈華微笑の説明をさせて頂く
拙い説明で、ご納得頂けないのは重々承知ながら
読み方だけでは、何も伝える事にならず・・・
こちらも苦心惨憺である

これは卑近な私事であるが、
お釈迦様も、ご自分の教えを伝えるのに
さぞかし御苦労後苦心なさったことだろう

仏陀は霊鷲山で、一本の花を指につまみひねりながら聴衆に示された
皆々?で黙したままであったが、その中で一人「摩伽迦葉」だけが
それを見て微笑んだーーーー!うむ、仏陀はしかと肯く
吾有正法眼蔵 涅槃妙心 実相無相 微妙法門 不立文字 教外別伝 付嘱摩伽迦葉
もちろん本当はインドの言葉であったろうが…とにかく
私は 正法の目 涅槃の深遠な心 "形が無い”真実の形 それは言葉を越えたもの 今ここに迦葉に伝える
無理して訳せばこんな感じだろうか?

いや一体これは何を意味していることやら…
なぜ仏陀は花を持ち出したのか?
花を手にした仏陀から迦葉は何を会得したのか?・・・etc・・・

仏陀の花・・・・・
もし、その場の聴衆が皆にっこり微笑んでいたら
もし、迦葉が微笑まなかったなら
仏陀は一人芝居でおわったのだろうか?
仏陀の花は・・・枯れるにまかせたか?

年の瀬に臨み、
僅かばかりの自分の智慧を伝える事が如何に至難なことかを痛感
そして今日まで仏法が正しく伝授されている事実に脱帽
なが~い 長~い 今日までの2500年・・・
一年一年の積み重ねである

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秋霜以律己
秋霜を以って己を律す…            


春風以接人・・・と対になっている
春のような優しい心を以って人と接し…
霜降る秋の厳しさを以って己は戒律を守り行往坐臥 
出来そうで出来ない、生きる姿勢であろう

自分がルンルンの時、誰に対してもOK 優しくできる。大体は・・・
自分がペチャンコの時、誰よりも自分が下の下に思える。
とても、他人に優しさとは・・・いかず
一切れのパンを半分分け合えても、絶対の一つは さて?
しかし
物質の贈与ばかりが、優しさの表現ではない
言葉と笑顔
これは、心、気持ち次第で充分表現できるもの
ただし、その気持ちを持つ余裕が誰にでも持てるものではない
まず、自己を修め律していなければ、自分の境遇の井戸から抜け出せず
結果、見え透いた「上っ面の演技」に終わってしまう
いかに上手く演じたとしても、苦境にいる人の目には明白に分かる
如何なる時も 
春風以接人事ができる人=秋霜以律己ような人  である

ニコニコしたり プリプリしたり 人とはいい加減な者である
いい加減を拒否すると、ストレスに捕まって自滅する弱い存在でもある
だめで 弱くて 適当で 無責任で・・・etc・・・

だからこそ、たまには、あるいは日常的に
秋霜以律己ことが必要だと思う
多分 誰かが何処かで
秋霜以律己 と行動している人が居ればこそ
世の喧騒も 常態化せず「事件」として扱われる

ただ、人任せにせず
自分も 春風以接秋霜以律己 やってみることだと思う

地球を上手く回して行く為に!
今日半日。。。あした一日・・・
みんなで始めたいものだ


暴走する路面電車
禅が、生の哲学ならば…            


今回は、「禅語」とは全く無関係・・・ではあるが
哲学としての禅は、かの問題にどう応えられるのか 
あるいは、禅が応える問題なのか…
ちょっと考えてみたい

かの問題とは、マイケル・サンデルの ”これからの正義の話をしよう” である
その中にある 「路面電車の暴走」

まず暴走する路面電車の運転士
A=線路の先には5人の線路作業員・・・このまま進めば完全に5人は死に至る
B=途中の待避線には1人の作業員・・・さて
運転士は?
あなたは?
Aを防ぐためにBにハンドルをきるのか、無作為(ブレーキは作動せず)なのか
運転士が禅の高僧なら、どんな判断を下すだろうか?

さらに、Aの状況を見渡せる橋に自分が立っていれば
どんな行動をとるだろうか? 
自分は身体が極端に小さい…自分の隣には巨漢の男が同じように立っている
今、この男を橋から突き落とせば電車の暴走を止める事ができる
すなわち、Aの状況を避けることができる
もちろん、巨漢の男は死ぬ
そう、橋に立っている小柄な男はあなたであれば?
そして、その男が禅の高僧であれば・・・

問題は、何が正しい行動なのか
正しい行動とは何か
正しさは永遠なのか
この禅というもの  達磨以来延々と伝わってきたこの哲学は
本当に、このような問題を扱えるのか???
自分が(人間が)如何に生きるかを問い続けた禅
5人を死なせるか、1人を殺すか
在るがママを受け入れるーーーーとすれば
5人が事故死するの甘受する事になるのか

救うための殺人 見殺すための禅 …。。。
どちらが選ばれるのか
逃げる事は出来ない  
。。。/・・・

今を生き延びるための哲学…として
禅はどう生かされるのか
運転士になり、橋の上の人間になり 
線路作業員にもなり、待避線の工夫にも 橋の上の巨漢の男にもなって
私たちは考えなければならない
必死に鳴き尽くす蝉のように生き切って逝くが如く
考えぬかねばならない@@@@@しかし
応えは、必ず必要とされる
説法を垂れるだけでは、自らの浅薄さを露呈するだけでる

命を懸けた応えが、いったい 在るものだろうか・・・・・と疑問の花が咲く


寒蝉抱枯木     
かんせん こぼくをいだく            


我が家では、夏の初めに ひぐらし カナカナがなき
盛夏には油蝉 その他 
夏休みも終盤に入ると 法師ぜみ…。。。
9月に入ると 夕方には虫の音と入替わる
ある夜、ふと もう夏が逝く と
あんなに酷暑に悩まされたのに、なぜか惜別の情がこみあがる
冬との別れとは別物の感情である

やがては死ぬ蝉が ただ一途に鳴き尽くす
地上での生をとことん生き切る
死に向かって突進する
この蝉の 無心の一時が
我々に、命を生きる姿と その命の無常なることを教えてくれる

蝉に学ぶまでも無く、
槿の露に、沙羅双樹、銀杏の黄落期
自然は、事の道理を説いてくれる…

だから どうなのだろう …。。。
 
丁寧に 大切に 生きる  でも  
どんなに一生懸命生きても まったく 不運の日々。。。
と 云うことも多々あるに違いない
それでも 生かされている自分を どこまで意識していけるか

平和な時に 「戦争反対!」の声は 容易く出るが 
有事の時に いったいどれほどの人が反戦を叫ぶのか

鳴き尽くす 十日足らずの日々を
蝉は それでも 文句無しに 生き切って逝く
やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声  なんて
したり顔でいるのは にんげん様だけである 


滅却心頭火自涼     
しんとうをめっきゃくすれば ひもおのずからすずしい            

 ~碧巌録より~

ものの書によれば
一点の汚濁なく妄想を打破し 只 修行に励む
坐禅に励む尊い僧侶の姿を彷彿させる…。。。!
とのこと であるが

寒暑の厳しさまでも撥ね退ける生き様は
「禅僧」だけのもの であろうか?
夢中という状態がある
忘我という境地がある
馬車馬という例えがある
それもこれも、汗臭さを感じさせる
つまり
人間生活のヘドロの中で、一直線に求め続ける、
人間の体臭に満ち満ちた境地であろうか…?
そうならば、
凡人、俗人 皆夫々経験済みのはず…
しかし、心頭滅却 とはひょっとして、次元が違う話 かもしれない
 
生きることに夢中になる事  最も至極重大事である  我々にとっては。 
そこを、さらに舞い上がる  と  何か別の景色が見える  
忘我を夢中を飛び越え くるりと 反転した場所に 火も涼しく感じる境地があるのだろうか

大いなるウソであり、言い過ぎの喩え であろうが
軽く、ふんふん 分かった気分なってはいけない!! 火自涼 デス

世の僧侶に於いて いったいどれほどの人がこの境地を体得したろうか

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明歴々露堂々     
めいれきれき ろどうどう            

 ~山川草木悉皆成仏~

おなじみの禅語です  が…
同じ事を、何度でも、同じ気持ちで説き続けるのも
私の修行の一つ…と考えています。
この永遠の修行に お付き合い頂く読者の皆々様には
「この、おかしな文を解読する」修行を続けて頂ければと
手前勝手なことを、計っております。
さて
自然に存する物 すべて
うそ いつわり無く、有りのままの姿で
堂々とそこに在る。
しかし
その姿の明朗さに、すべての人が気付くわけではない。

自然∩人間…の関係であろうか?
∩の重なり部分を、少しでも広げていく事
ウソと欺瞞 見得虚栄 嫉妬に懐疑 有象無象 それすら気付かぬ己
一日たった一度  水の流れに手を当てて じっと 手を見つめて欲しい 
じっと見る と言うことは 見えない水を そこに見ること 
ありのままの自分と水の 劇的な出会いである。
一日一度の体験が、その日の自分の目を清浄にしてくれる。
虚勢の芥を流してくれる

しかし、在りのママ でいることのなんと勇気の要る事か
そして
ありのママ を受け入れることは、それ以上に難しい。
 
複雑怪奇な政治経済の世に
自分の思惑と、かけ離れた事実もやっぱり受け入れざるを得ず
何の咎かと呪いたくなる天変地異も、悲しみだけでは立ち上がれず

何が露堂々?  どこに仏法?
と投げ出したくもなる
でも
イヤだ イヤだ と とことん逃げた  その先に
ぼんやり花が咲いている  はずだ。
もちろん 誰かからのプレゼント ではない

自然∩自分 の地に 自分で咲かせる花 はな ハナ だろう

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慈眼視衆生     
じげんじ しゅじょう            

 ~慈しみの眼?どんな眼?~
 
衆生=生きとし生けるもの、すべて
『法華経』第25章で
観音様が、全ての命あるもの「衆生」を 慈しみの眼をもって見ていることが述べられている
やさしい眼差しが、即時の援助や開運をもたらす…はずは無く
じっと見つめられる自分、見つめられる事によって、心の芥が清められていく自分
そこに信じるということ、信仰というものが生じてくるのであろう
欲徳なしに、じっと見守ってくれる母、人、空 花 木々
自分の心が、それらのものものと同じく、浄化されるなら
それらは みな観音様である 
そしてまた、無私無欲な慈しみの眼で、すべてのものを見守る自分が居たらば
もちろん、そんな自分も観音様である・・・

大伽藍、大寺院の 国宝観音菩薩ばかりが観音様でないはずだ
じぶんを取り囲むすべてのやさしい眼
優しさを、慈しみを 素直に受け止める心
その心をもって、自分のまわりのものものを見つめ見守る自分
すべてが、観音様である
人から人へ、慈悲の心が反射しあい 一人の観音様が 
千の手を垂れ、十一の顔を持ち 二十五に姿を変えて…
25X11X1000≒∞
この世に存在するはずである

ではあるが、しかし、ところが、ここでの話、詰まるところ、ホントの話
なかなか心の浄化は出来難く
毎日、日夜、忘れた頃にもう一度、観音様に会いに行く 見つめられに行く 
不思議なもので、その時は、天下の観音様に変化した気分…になるところが、もはや俗人かとも思うが
たとえ僅かな一時でも、決してゼロではない  では
観音信仰は、0と1 の繰り返し?       いいえ
微々たる数が、積まれています。
実体験すれば、すぐに納得。波打ちながらも、右肩上がりです。 



心外無法     
しんげ むほう            

 ~やっと5月…でも~
 
気まぐれな春の天候も
今年ばかりは、相当きつい 
自然に対して 自分は憐れで チッポケで 紙屑にも劣る かも
そんな気分の繰り返しであった が
5月が近付くと さすがに 我が世を得たり! の気分になる
空も 花も 木々も 何もかも 「わたし」「わたし」「わたし」と陽気に声高に話し始める

それは、筆者が イョッ~5月だ! 私の5月だ~と 
そんな気分である為に 多分 何を見ても 相手に 自分と同じ分子や細胞を感じるのであろう
若し今、自分が5月病発症寸前だとすれば・・・
空も 花も 木々も 色も無く 声もなく その存在すら 消え失せるかも知れない
人の目は心の眼である
心に無い物は、何も見えない

三界唯心  心の外にはどんな事実も存在しない・・・ 
物質の世界 感覚的欲望の世界 霊的な世界 どれもこれも
心があってこそ存在する あるいは 心が創り上げる亡霊かもしれない
青く見える空も心 赤い花も心 元気な若葉も心 
自分の心が とらえる 自分のセカイ にすぎない

しかし、それで 世界の共有 なんてことが どこまで可能なのか?
無であるという時点 ただ一点を共有しあうだけかもしれない
一人来て 一人で還る 何処よりか来て 何処へか去る・・・
ああ そうなんだと 肯き合う その一時点ではないだろうか


花明五嶺春     
花 明らかなり 五嶺の春            

 ~島国に暮らして~
 
まず、五嶺とは? が、ピンと来ない
これは中国の五大山 
泰山 華山 嵩山 衡山 恒山 の5つ

雇い止めや減給、解雇…といった社会にあって
あっけらかんと、「花明らかなり」 と朗詠できる人が
今、どれだけいるだろうか?
日本全国 お花見ムードの昨今ではあるが
桜の下では、悲喜交々 今日の憂い 明日の闇に
夜桜は なんと応えてくれようか

人の目には不思議なものでも
花は、何ごころ無く、時期に応じて咲いていく
笑う人にも 泣く人にも 同じ姿で寄り添ってくれている  ような・・・
そんな気になるのも、人の人たる身勝手さであろうか? 

この句が 「花明立山春」 なら
自分の前に広がる花の山  視線が限定される
そして   「花明世界春」 なら
見もしないのに・・・ウソつきだ!となる
五嶺春 で
許されるなら、「可視可能な無限大?」  と表現したい
島国の日本ではちょっと想像しがたい、360度何でもありの中国大陸ならではの詩句である
人間界の有象無象をを大きく抱擁する自然界の営み
それも、命を呼び覚ますような花 華 花
世は花に連れ 花は世に連れ・・・
花の中で 人は 自分の『仏さま』 と出会うのであろう


幽鳥弄真如     
幽鳥 真如を弄す            

 ~弄って、もてあそぶ?~
 
技巧を弄す・玩弄・愚弄とくれば”弄”の字は、イヤな意味かも…と思うが
両手の中で玉をもてあそぶ・・・という文字が”弄”
それにしても、山深くに棲む鳥が
お釈迦様の真の法を、もてあすぶ、とは?

実は、この句には、”古松談般若” という前半がある
古い松の木が、般若(仏の智恵)を語り…と来るのだから
それに反旗を振って
鳥が、お釈迦様の教えをもてあそんでは・・・幽境も興醒めである
ここは、鳥の囀りが、真の法を存分に、そのままに表している、その有り様を
完結に”弄す”と言い放っているようだ

厳しい寒さも和らぎ始め
古松の生茂る幽谷の中から鳥の囀りが聞こえてくる・・・
自分が辛い! 自分が悲しい 自分は孤独だ! 
自分の能力は? 自分の財力は? 自分の地位は?
幾多の自分を引きずって生きている毎日ではあるが
森羅万象なにもかも お釈迦様の説かれた法のまま存在している
ただ人だけはーーー* 人であるが故にーーー*
しかし
倒れ行く人に 咄嗟の手を差し伸べる心を持っているのも
また人間である

春の訪れに、ハッと気づく・・・忘我の一瞬を思い出して欲しい
それが 自分の中に住む『仏さま』  です

禅とは?
自分で見つける自分の中の仏心


東風吹散梅梢雪 一夜挽回天下春     
東風吹き散らす梅梢の雪     
一夜挽回す天下の春       

 ~禅語…とは言うものの~
 
東風は春風、幾多の辛苦を乗り越えて
時節、因縁が重なり、機が熟す
煩悩、妄想吹き飛んで
梅花が開く春を迎える

これは長い雲水修行の果てに
会得する境地を詠じたものであろうか…
あるいは、努力が努力として実を結ぶ境遇に於いてであろうか…
受験期を前に、なんとも頼もしい詩句である
多難の風雪を乗り越え、
吾が手で掴む天下の春!
そうなれば、万々歳だ。

しかし しかし
雲水や学生の努力が実を結ぶことは可能であっても
幾重にも重なる格差の重圧を受ける人にとって
個人でその壁を打ち破れ!…と言うには、現在の社会状況では
あまりに厳しすぎる。
自己責任的な発想では、解決されない問題が多すぎるのだから。
禅の高僧が、如何に自己を律し、自己研鑽に励み、悟りを得たとしても
努力が報われない状況にある人々の日々の辛さの類では無いと思う

最低限の衣食住が賄われる生活から発した悟りを
かの老師や高僧たちは、どのように社会に還元していくのだろうか?
彼らの教えは、高額寄進者に向けて述べられるのだろうか?
まさか…と思いつつ
ではいったい、「悟り」とは?…何もの…
煩悩を捨て、拘泥せず、他を慈しみ…仕事が無ければ、野外でじっと耐えるしかないのだろうか?

宗教家に福祉政策を求めはしないが
東風吹き散らす梅梢の雪
一夜挽回す天下の春…と言われても 
その挽回できる社会を実現するために
やはり、雲水修行以上の行動力と努力を
忘れて欲しくない…
一山の主は天下の為に動いてこそ主ではないだろうか?

では社会に何を発する事が出来るのか…は
膨大な経文を覚えるよりも難しそうである。

禅語とは?
生との取っ組み合いから生まれる言葉…と考えたい

泣いても一日     
笑っても一日     
どちらでも良い     
良くないのはどちらでもない一日     
せめて怒ってみるか
  

 ~禅語とは~
 
これは、某ジャーナリストの最期の日に向かう日記から
真剣に生と向き合えるのは
死を意識した時かもしれない
そして
死を意識した時、人は
哲学者にも宗教者にも近い境地に達すると思う
真剣に何かを極める時…
平常では到達し難い心的な世界を獲得するのだろうか…

泣くでもない…笑うでもない…心を波立たせない一日より
怒りでもよい、自分の心を何かに対し表現し続ける一日

禅の高僧は、揺れ動く心の働きを「自分であって自分ではない…拘るな」と言われるが
社会に生きている限り、様々な事象に心が揺れ
揺れる事で、己の立ち位置を再確認し、触発され
自己の中で熟成したものを、社会に還元するという営みを繰り返してる
笑ったり、泣いたり、の連続が「生」への妙薬でもある
皆が同じ考えを持ち、なかよし風を吹かせているのも変といえばかなり変な現象である

人と人だもの…その間で生きているんだもの…
何事にも拘らず、治まりかえって生きていても…どれほどの生甲斐があるだろうか?
死に向かって、誰しも猛スピードで走り抜いていくのに
そんなに「おりこうな心」ではいられない
にこやかに「死」の床に臥しているのはメロドラマの主人公だけでたくさんだと思う 

好奇心や達成感や喜怒哀楽
心を波打たせ、精神生活を耕し、今日と言う日を強く意識しつつ
死へのゴールに向かおうとする
この某ジャーナリストの生き様、死に様…は
仮面高僧の有り様より、よほど人間界の高僧ではないだろうか!

禅語とは?
生との取っ組み合いから生まれる言葉…と考えたい
少なくとも、自称『禅僧』の語…と定義付けるのは、今後訂正したい。
-->
四苦八苦  
しくはく
 ~今月も特別編~
 
これは、禅語ではなく
お釈迦様は「人生は苦なり」と説かれ
「生」「老」「病」「死」の4つの苦しみは
誰しも逃れる事のできないものだといわれた。
また、生きていく上にも
「愛別離苦」…愛する者と必ず別れねばならない苦しみ…
「怨憎会苦」…怨んだり憎んだりする人と会わねばならぬ苦
「求不得苦」…求めても求められない苦しみ
「五蘊盛苦」…身体が丈夫な故におこる苦しみ
以上、合せて八苦

この四苦も八苦も、逃れようとして逃げ切れるほどヤワではない
では、どうするのか!!
愛する者との別れは、特別悲しく、他人に裏切られれば心底憎みたく
ちょっと財を成せば、さらに儲けたくなり
死に病にかかれば必死で妙薬を求め
すべてが、ラッキーなら、これを如何に保持すべきかに苦慮する

人間って、そうなんだ。そうではあるが、求めても求めても
決して、「充足されることが無い」と知ると知らぬは全く違う
この四苦八苦を受け入れよ…とお釈迦様は説かれた
仏教はこの人間の避けがたい苦しみから始まった宗教である 

悲しみや怨念、我欲の坩堝に埋没し尽くすことを誡めている
人は皆、当然のことと思うかもしれないが
さて、わが身に事が起きれば、一度や二度はこの滝壺に落っこちる
その時、必ず、お釈迦様の説かれた「知恵」の海が救いとなるだろう
悲しんでも、苦しんでも、それは避けがたきものと、受け入れることだと
自分自身が納得するまで、この知恵の海が伴走してくれる

いや、何でも無い。これは今後の筆者自身への戒めである

知足  
足るを知る
 ~今月は特別編~
 
只今、ただいま
家族が二人増えました
3年の歳月を無事に過ごしたR君と…
6年の公務員生活を辞したM君…
やっと落ち着き場所が定まり
未知の生活に一歩を進めようとしています…
その道は、不安を伴いながらも
やっと辿り着いた一本道です

あれもこれもと焦りつつ、手に入れた充足
その至福を一生の糧にするものこそ
”知足”ではないだろうか?
決して停滞する事ではなく、
常に、与えられたもの中に幸せを見出していく智慧の働き
二人で互いにその智慧を磨いていく事が、また新たな幸せに繋がっていくだろう

99頭の牛を飼う人が、友人を騙して、あと1頭を得る…一瞬の喜びと
友人の為に、自分のたった1頭の牛を差し出した人間の一生の充足
さて……さて 

盗人に追い銭…も、ちょっと考えものだが
欲望の地獄に陥るのはもっと考えものである

無駄な欲望からは ちゃっちゃと逃げるが勝ち、
戻るべきは、今日の日の充足感
Once there was a way to get back homewars.
Golden slumber fill your eyes.
Smiles awake you when you rise.

孤峰雲散千渓月  
孤峰(こほう)雲は散(さん)ず千渓(せんけい)の月
 ~大灯国師語録より~
 
孤峰にかかっていた雲が散って、
月が全ての谷間を照らしている
と、それだけのことであるが…
単に夜空を照らす清らかな月の景色ではなく
雲が散り、月明かりが
世の中を隈なく照らし、すべてのものが輝く…
迷いが消えてこそ見えてくる境地

反対に
様々な雲で覆われている限り
真実は何も見えてこない ということだろう
この雲が尽きれば、また次の雲が日夜生じ
人の世はなかなか忙しい
雲が消える日常生活なんて
気が抜けたコーラ…ぬるいビール…?

悟れぬ俗世こそが生甲斐に繋がりそうな気もするが
ふと見上げた夜空で 
純粋無垢な月と対面した瞬間
赫々云々アレコレがらくた
すとんと抜け落ちて
唯々 見入ってしまう
@その時、
誰もが、仏になっている…と思う
瞬きするつかの間でも
確かに、あなたも、わたしも、悟りの境地に居る

悲しいかな、それが持続せず、ただの泡に終わる事である

泡(バブル)も、途切れずに沸き起これば…
と、微かな期待を込めて生きている

瓢箪なまず  
これは、「夏休みの宿題」
  
ころころのひょうたんで
ぬるぬるのなまずを捕まえよ!
と、足利四代将軍義持が
日本水墨画の源といわれる如拙に描かせた名画
”瓢鮎図”という名画は
瓢箪を持って、なまずをとろうとする様子が描かれている
その絵解きに、当時の京都五山の31人の禅僧が挑んだといわれている

さて、ここで「夏休みの宿題}
いったいこれは何を言わんとする画なのか?
瓢箪でなまずを捕るには?
将軍様が変なら、如拙も変?でもマジメ?
”瓢箪なまず”を決めこめば、案外 生きやすい?かも…

梅雨長引いたためか、急な気温の上昇におおあわての肉体
精神統一、集中力強化をめざして 
瓢箪で、なまず
瓢箪となまず
瓢箪なまず
じっくりと考えて下さい
浮かんだ解が、
生きる知恵になるかも…


夏雲多奇峰  
かうん きほう 多し
  
蒸し暑い昨今…で始まった先回から
まるで季節が動かず
長~い梅雨が続いている
7月下旬には梅雨が明けるものと疑わなかった日本人に
”NO!”
自然現象だって無常の世界?
この異常気象の因果関係を突き詰めても
反省しても、人間の操作には及ばないのが”自然の姿”

夏の雲が時々刻々と姿を変えていく
同じ形状の雲をもう一度…と思っても
戻りそうでいて、それは異な物
決して同じ現象は繰り返される事が無い
雲に限らず 季節も 天然自然すべてが
無常でいて非常 そして非情 ときに温情

どんなに科学が進歩し、IT化されても 
人事は自然の手の中にあり
自然もまた無常という事実を
そのままに受け入れ そして
如何にその無常とイイ関係を持つか
それを説いているのが仏法だと思う

8月に入っても明ける梅雨
パッと盛夏の太陽が差せば、 
私たちは また、天に酷暑を呪う事だろうが…


心如水中月  
心は水中の月の如し
  
蒸し暑い昨今、水が何より恋しくなる
外掃除が終わって、手に受ける水は
疲れも一緒に洗い流してくれる
しかし、水とは得体の知れぬ不思議なものでもある

様々なものを鏡のように写し取ってくれるが
どんなに深く手を入れても捉えようがない
そこに写される「月」
そこが清水であれ汚水であれ
「月」はそれように映し出される

私たちの目も、物の美醜に関わらず 
無心に全てを見てしまう
月は水の流れの如何に関わらず、その姿を水に映していく
私たちの見たものに変わりは無くとも
それを美とするか、醜とするかは
日々動揺している「心」のありようで決定されてしまう
捉えようも無く動き続ける「心」とは?
まったく信用ならないもの?のようでありつつと
その根底には、決して動じない根のようなものが
ありはしないか?…と、追い求めたくなる
その永劫の心を求めるのが「仏教」ともいえる

吾がこころ深き底あり 喜びも憂いの波も とどかじと思う…
そして
心とはいかなるものをいうやらん 墨絵にかきし松風の音…でもある
○梅雨晴れのひと時…

雲去青山露  
雲さって青山(せいざん)露(あら)わる
  
梅雨空が切れて、青空がきりりと見える
曇っていた山々が、洗われたような姿をみせる
人の心のもやも消えうせれば
後には、人間本来の姿が見えてくる

心の靄…とは、様々な欲望や葛藤、制約・・
つまりは心の迷いのことだろう
迷いから脱却すれば、心は本来の姿を現す
そのはずではあるが
では
間単に脱却に成功できるか?
あるいは、脱却が不可能な場合は 
心は、迷いのママなのか?

端的な答え無くして救いなし…とすれば
宗教の存在意義が無くなってしまう…
Aで無いならBという計算式ではなく
Aで無いことを目指しつつBを拡大していけば
限りなく0(ゼロ)に近いAと
無限に近いB という構成が出来る
それが人の知恵であり
宗教によって導かれる世界ではないだろうか?
沙羅の花が散りつくし、
掃き清められた庭に、鮮やかなスギ苔が広がる…

○今回は大智寺の6月を詠んだような詩…

門前緑樹無啼鳥  門前の緑樹啼鳥無く
庭下蒼苔有落花  庭下の蒼苔落花有り
 
門前のよく茂った木々にいつもの鳥の声は無く
庭には一面に敷き詰めた苔があり、そこにホロホロと散った花


苔を生かすために慌てて花を掃かずとも
苔の緑と花が織り成す色の共演は
誰が演出した訳でもないのに
みごとに調和した美しさである
何の作意も無く、生まれる命と散り行く命の出会いによる
今しばらくの美である
そして
この静けさ・この美しさの中に没入して行く自分と
大いなる自然も 
また充足された一つの世界を作っていることに気付く

なぜ、自分が存在するのか…を問う以前に
忽然と「無我の自分」と「無我の自然」が一体化している…
自分の思いのすべてが余りにも「有我」と知る

日ごと散り行く「姫沙羅」が
スギ苔の上に織り成す美しさに詠嘆しつつ
人の知恵の、未だ至らぬ世界を思い描いている

沙羅の花が散る事をお金に変える人もありつつ…
無料で解放している花の下には訪れる人も無く
いよいよ静けさが増していく…

○今回は「人境共に奪わない境地」の詩から

南村北村雨一犁  南村北村雨いちり
新婦餉姑翁哺児  新婦は姑に餉し翁は児に哺す
 
 
戯れに鳥の囀りに応えて話しかけた…と題される詩の一節
犁とは、牛に引かせる鋤のことで
雨が降って、田圃に水が入り、この鋤での農作業に適した時期になることから
雨一犁は農作業に適した湿りの雨のふり具合をいう
新婦は、若嫁さん。翁はおじいさん。児は孫。
若嫁さんが農繁期の家族のためにご飯を作り
おじいさんは、孫にご飯をたべさせる。
忙しいながらも、和気藹々とした家族団らんの一場面。
環境と、自分が融けあって、共に同じ目的に向かって協力する姿である
懐かしく、しかも今では希少な家族の姿である。

なぜ、我々はこの生活を放棄してしまったのか…
なぜ、捨てざるを得なかったのか…

沢山の「なぜ」を抱きつつ、
今、多くの人々が、失ったものへの悔いと郷愁と回帰に忙しい
が、もはや立ち止まっている場合ではない
人間と自然環境 人と人、国と国が「人境倶不奪」
の状態を求めて、生きていかなくては
明日を語れず、生きるを語れず…
摩訶不思議なウイルスに滅ぼされてしまう

今こそ、「今を生き切る」知恵がいる
今こそ、「足るを知る」禅がいる
今こそ、仏陀の教えが必要とされている


○今回は「チルチルミチル」かな?

過橋村酒美  橋を過ぎて村酒(ソンシュ)美なり
隔岸野花香  岸を隔てて野花(ヤカ)香し(芳し)
 
 
橋の向こうで買った酒は美味しい…
岸を隔てて見る花のみごとさ…
同じ酒でも、同じ花でも、他所のものはイイように思えてしまう
身近に有るものの真の価値に
人は何故、気付かないのだろうか?

自然栽培無農薬野菜!と名付けられると
我が畑の野菜より優秀そうに思って
通販で買ってしまう農家の若嫁さん
実は舅の作った野菜のほうが、よほど安全だったり…
かと思えば、同じ田舎暮らしながら
バスの便数の多少で、”こちらが町でそっちは田舎”などと
所詮は日本の地方都市ながら”お山の大将”ごとき人もいる…

自分の環境、自分の立地点を、
ひいては自分自身を、どこまで正しく見ることが出来ようか?

あるがままを素直に受け入れること
考えれば考えるほど これは難しい
誰もが持っている色眼鏡を
いかに透明無色にしていくか?
せめて、自分の目は決して無色透明ではないという事実に
多くの人が気付いたなら、社会の喧騒も
少しは、減るだろうに……と思う毎日です
ところで
この事実を、
10個の漢字で表現できる漢文って
なんかカッコよくないですか


○今回は「唐詩選」から、ちょっと懐かしい詩を~
古人無復洛城東  古人また洛陽の東に無く
今人還対落花風  今人また対す落花の風
年々歳々花相似  年々歳々花相似たり
歳々年々人不同  年々歳々人同じからず
寄言全盛紅顔子  言を寄す全盛の紅顔子
応憐半死白頭翁  まさに憐れむべし半死の白頭翁
此翁白頭真可憐  此の翁白頭 まさに憐れむべし  
>b>伊昔紅顔美少年  これ昔 紅顔の美少年
公子王孫芳樹下  公子王孫 芳樹の下
清歌妙舞落花前  清歌妙舞 落花の前
 
 
ポピュラーではあるが
全文と出会う事は少ないと思う
ちょい読みでは、過去を思う老人の一人語り?であるが…
詳しくは
洛陽の都の東で、見事な桜のを眺めているが
かつて自分と同じように眺めた昔の人は、今はもういない。
昔も、此の花を眺めに、たくさんの人が訪れたが
そんな人々は皆いなくなり、今の人々が、昔と同じように
風に舞う落花を眺めている
今を盛りと時めく人、青春を謳歌する紅顔の美少年たちに
私は言葉を贈りたい。死を目前にした白頭の老人をいとおしむべきと
白髪の翁も、かつては君たちと同じ紅顔の美少年であり
そして生気みなぎる君たちも、やがてはこの老人と同じ姿になると…
その白髪の翁も、王侯貴族らと席を同じくして
芳しく花咲く木々の下で、清らかな歌、艶やかな舞いを
楽しんだ事もあったのだった。

大いなる宇宙の中で、個々人の命が生まれ没し
”生命”という大河として流れ続いていく
今の自分の力が如何に大きくとも、やがては滅び
滅び行くが為に、次の”生命”が生まれ出る
去ることは、出る事を祝福する
去り難しは、出を挫く
昨今の政界のように、財界のように…

これを大阪ふうに下世話に言えば、
赤子(を)笑うな 来た道や 年寄り(を)笑うな行く道や
ってことだろうか
後ろを見、前を見つつ 人一人精一杯の”あぶく(泡)”を作って
次の世代に継いで生きたいものである


人面桃花下相映紅 桃花依旧笑春風
人面桃花下あい映じて紅なり 桃花旧に依って春風に笑む

これは七言絶句の承結の句をとったもので  
元の七言絶句はストーリー性のある句で
  去年の今日此の門の中
  人面桃花下あい映じて紅なり
  人面は知らず何処かに去る
  桃花旧に依って春風に笑む
これでぼんやりと物語りは解されるが、詳らかには
桃の節句の日(清明の日)、ある人が桃の盛りの郊外を一人で散策していたが
喉の渇きを覚え、さる人家で飲み物を所望したところ
うら若い美女が現れ、親切に接待してくれた
それが忘れえず、次の年の清明の日に又その人家を訪れた
ところが、門は閉ざされ、彼女には会えず…そこで
先の七言絶句を門扉に書いて帰ってきた。
数日後、彼がまたその人家を訪れると、あの娘の父親が泣いている…
~門扉に書かれた詩を読んだ娘が、あなたを恋い慕って、儚くなりました~
それを聞いた彼は、娘の亡骸を前に慟哭していると
なんと!娘は蘇り、二人は無事結ばれた

通俗的?には、こんな物語に発展し、演劇の好材料にもなる七言絶句
ではるが……禅では、同じ七言絶句であっても
そんな恋情には知らぬ顔で
人境倶不奪(以前掲載)の世界を見るようだ
人と自然が和み合い、主観客観ともに共存し調和する肯定の境地!

しかし何れの立場をとっても(恋の成就も世界の調和も)
絵に描いた餅
その餅を得んが為に、禅は修行を唱え
人は、自分磨きに精を出し…日々是好日

梅花和雪香
梅花雪に和して香(かんば)し

始めは緑の硬い蕾も、立春が近づく頃  
ふっくらと白く、あるいは紅色にふくらみ
ある晴れた日に…プア~と…そしてパチリと花開く梅
待ち望んだ春そのものを形象化したような
ささやかでありつつも、凛として、高貴な香りを漂わせてくれる
”梅が咲き始めた!”と思う一瞬
冬の厳しさを、肌身で感じ、その過酷さに耐えて来たればこそ
味わえる唯一無比な喜び
暖房の入ったビルに暮らす人を羨ましく思った長い一冬
しかし、そんな暮らしの中では、この喜びは味わえないだろう
満たされないものが、満たされていく喜び!
0が1になる喜びは、100が101になる喜びより
どれほど有意義かしれない…と思う
飢餓の中で得る、”一つのおにぎり”も多分…
満たされるばかりが幸せではないのかも?…

梅一輪咲いたことで
こんなにも喜び、こんなにも物事を考えさせてくれる

耐えて・生きて・散って…泣き笑いの日々が
これからも続くことだろう
ともに冬を耐えた梅の木といっしょに

寒夜無風竹有声 疎々密々透松櫺
耳聞不似心聞好 歇却灯前半巻経
寒夜風無く竹に声有り 疎々密々松櫺を透る
耳聞は似かず心聞の好きに 歇却(けっきゃく)す灯前半巻の経

虚堂和尚の詩偈集『江湖風月集』の一節  
虚堂和尚は鎌倉建長寺に住山した大応国師師匠で中国人
臨済禅は彼から大応国師へ→京都大徳寺大灯国師→妙心寺無想大師へ
と、法が継がれて来た…と云う予備知識も大切です
さて、底冷えのする寒夜、聞くとも無く聞こえてくるのは
雪の降る気配 風もないのに「竹に声有り」
竹の葉や枝が積もった雪でしなる、しなった葉や枝が雪を跳ね返す音
静かな夜故にその音は一層響き、その音がまた夜を一層静かなものにする

窓辺の松をぬけて、その音は時に大きく、小さく聞こえてくる
思わず耳をそばだててしまう
いや、これは耳が聞いているのではない。自分の心が聴いているのだ
心で聴いたその瞬間、経を読んでいた自分と、竹の声とが一つになる
寂然とした境地の中に自分が埋没する
自己を忘却して静けさと一体になってしまう……

心の葛藤とは無縁のこんな境地を、是とするか否とするか*は
人それぞれだろうが、否とする前に体験して欲しい、
その境地が、決して「死に体」では無く
「生き体」に通じるものである事を、体と心が欲している事を
自身が感得できるのではないだろうか



一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観
一切有為の法は 夢幻泡影の如し 露の如くまた電の如し
まさに是の如きの観を作すべし

『金剛経』の一節で、所謂る禅語とは少し違うが  
1年を振り返ってふと考える事である
為す有るこの世の事柄は、水の泡、影のように
はかなく実体の無いものだ。また
草葉にのる朝露も、電光石火も
跡形も無く消えてしまう。
これが、仏教における「夢」である
かなり頼りないものである

「夢」を信じて生きろ!…と言って若者を叱咤激賞しても
「夢」とは所詮、消える運命にある…と落胆させるだけなのだ
昨今の世界経済情勢は言うまでも無く、北極の氷山も…
決して永遠は無い…と嫌でも悟らされる
「無い」からどうなんだ?
そこから問題がはじまる

沢庵和尚は、禅僧が最期に書く「遺偈ユイゲ」に「夢」と書いた
弥勒菩薩も観音様もすべて夢…お釈迦様はずっと以前に教えてくれた

せめて「夢」の中で「夢」に為に「夢」を捨て「夢」のまま
生きることだけは、したくない…と思う
ただ、夢と知りつつも懸命であらねばと
新しい年に向かって、自分に誓いたいものだ

清風払明月・明月払清風
せいふうめいげつをはらい・めいげつせいふうをはらう

『人天眼目』巻1にある有名な言葉です  
夜空の月を眺めていると、ぼんやりと
今現在と違う自分の物語の世界に入ってしまった…という経験
誰もが、一度くらいあるのかもしれない
それほどに神秘的な輝きを放っている
…あっ、そこに一瞬、心地よい風が吹きわたった…
と、月の姿が、輝きが、更にその神秘性をまして
物語世界すら、軽やかに変化を遂げる

また逆に
やわらかに吹く清風を受けて
ふと見上げた夜空に、きりりと月が輝いている
途端に、ぬるま湯の中に居て、ピリリと冷水を一滴受けたような…
決して不快ではなく、言って見れば「希望に向かう緊張感」
それが「明月払清風」ではないだろうか。

明月と清風:共存共栄
一口で言えばそれだけのこと?・・ではあるが
ゼロサムゲームに泣く昨今、大切にしたい一句である
莫煩悩・莫妄想
まくぼんのう・まくもうそう

無学祖元が、鎌倉時代後期の執権北条時宗に  
書き与えたと言われているのが「莫煩悩」
煩い悩むなかれ…あれこれと思いわずらうな…
仏教での煩悩はいわゆる貪・瞋・痴(ドン・シン・チ)ではありが
祖元は、元の侵攻と言う国難に直面していた時宗に
…あれこれひっかからず、決めたことに迷わず直進せよ…
と、一喝したのである
決心のまま直進する!これには、かなりのエネルギーが要る

この勇気と言うエネルギーは
私たち普通の人間の普通の生活の中でも、最も欲しいものではないだろうか
いつまでも悩み続けると言えば、聞こえは良さそうだが
熟慮に熟慮を重ねると言えば、あたかも徳人のようではあるが
人間、一つ事を決すれば、エイッ!ヤッ*
と、実行する勇気に比べれば、熟慮も悩みも微々たる物である
エイッ!ヤッ*/の後は、それこそ無になってガムショラに突き進むのだから
エイッ!ヤッ*/が、外れたときはきっぱりゼロを受け入れる、その時にも
要るのは勇気というエネルギー

祖元は、この絶妙なるタイミングで莫煩悩
鎌倉末期の武士の心に、射ち込んだのである

莫妄想は、次から次へ、あれからそれへ
有りもしない事を、有ると信じて
くよくよしたり、他を怨んだり、そんなことはやめよ。ということ
ゆめゆめ、妄想に食い殺されぬように… 

頭上漫々脚下漫々
ずじょうまんまん きゃっかまんまん

頭の上にも脚の下にもどこもかしこもみちみちている  
いったい何が?…
人の欲か 自然破壊か 殺気か ネズミか・・・・…
これを読む人の人生観や世界観で
満ち満ちているものが何かが決まりそうであるが
唯一のものは
宇宙の生命
この世のすべてが命で充たされているのではないだろうか

お釈迦様は
~山川草木悉皆成仏~さんせんそうもくしっかいじょうぶつ
と、言われている
この世に存在するもの全ては、みな成仏している…つまり
すべての生命体は、その生き様の中に仏の教えを供えているということか?
命の限り生きるに懸命になる姿に、成仏のありようを感じる
ただ、人間は時として、無駄なものを多く持ちすぎて生きる為に
「すべての生命体」から、ちょっと外れてしまうのだろう

そうだ! ちょっとした弾み ちょっとした我欲 ちょっとした忘我
だから、だから 頭上に、脚下に存在する大いなる命を
静かに体感して、自分の中の成仏した魂を再発見すべく
お経を読み、合掌し 座禅し 山川草木悉皆成仏を
何度でも繰り返し再確認したいものだと思う
そんなを提供できる大智寺でありたいと思う

奪自不奪境 奪境不奪人 人境倶奪 人境倶不奪
だつにんふだつきょう だつきょうふだつにん
にんきょうぐだつ にんきょうぐふだつ

さて最終回は”人境倶不奪”です。  
主観も客観も共に存する…
自分を生かし 他をも生かす 互いに共存する境地
言葉では言ってしまえるが
最も困難な世界だと思いませんか?

A集合とB集合は A∪B で ∞ムゲン
すべてを呑み込み
自分も他者も区別無く…
大いなる世界の一点となる
しかもそこには主と成るものが無い
では、存在とは何であったのか?

難しい哲学よりも
今夏の異常気象!
人間の心の餓鬼が、自然体系を破壊しつつある事実こそが
すべてを語っていると思う

奪自不奪境 奪境不奪人 人境倶奪 人境倶不奪
だつにんふだつきょう だつきょうふだつにん
にんきょうぐだつ にんきょうぐふだつ

3回目の今回は”人境倶奪”です。  
主観も客観も共に奪ってしまう
自分の意見を否定し、人の意見も否定する。
自分も駄目だが、あなたの意見も駄目ということになる。
互いを打ち消しあって、では何が残るのか?
これを真っ暗闇ととらえるか、それとも
すべて否定されつくした後の、絶対の静寂と捉えるか?

空集合は不存在とも違うと思う。
それは、すべてを呑み込める大いなる空。
自分も他者も、自我を否定し尽くして…
全き空の器に入り込み
自他共に区別無き存在となる事ではないか?
否定しあってこそ、存在しあえるともいえる。

連日猛暑の炎天下
自分というものが、とろけ出して
逃げ水のようになっていく
自分も他人もあったものではない
やっとの思いで呼吸している生命体としての自分を感じるばかりである

ああ、否定したはずの自分がまた動き始めている!
だから…だから…
さらに「人境倶奪」に徹してみよう


奪自不奪境 奪境不奪人 人境倶奪 人境倶不奪
だつにんふだつきょう だつきょうふだつにん
にんきょうぐだつ にんきょうぐふだつ

前回に続き今回は”奪境不奪人”です。  
全世界を自己と他に分けて
人は主観であり、自己。境は客観であり、他。
自分を生かすor殺す・他を生かすor殺す…或いは
自分も他も生きるor自分も他も殺す
簡単に言えば、自分と他者の関わり方アラカルト?
数学で出てきた、集合の∪や⊂・∩で表される世界。

で、今回は客観をすべて否定し
主観を全肯定する世界です。
お山の大将我一人…
まわりのものをすべて自分の意のままに従わせていく
自分だけがすべての采配を振るう。

一見、自己中心的であっても
これに欠けると、他人の言うなり
責任転嫁?逃げの一手?自己の不在

禅の教えでは、自我意識を時に否定するが
様々な生き方の中で、禅的生を選ぶのは
他でもない、この"自己”である
禅は夢ではなく”生”なのだから
現実にどう生きるかの一手として
奪境不奪人もまた忘れる事はできない

では次回…人境倶奪…を考えたい

奪自不奪境 奪境不奪人 人境倶奪 人境倶不奪
だつにんふだつきょう だつきょうふだつにん
にんきょうぐだつ にんきょうぐふだつ

臨済宗の開祖・臨済禅師のお言葉です。  
なにか、外国の言葉のような、呪い語のような…
簡単に言えば、自分と他者の関わり方アラカルト?
数学で出てきた、集合の∪や⊂・∩を使うと
わかりやすいかも…
全世界を自己と他に分けて
人は主観であり、自己。境は客観であり、他。
自分を生かすor殺す・他を生かすor殺す…或いは
自分も他も生きるor自分も他も殺す
それは熾烈なサバイバル?ゼロサムゲーム?
それほどに禅を極める事は厳しい、と言うことだろう…
そして最後に
その何れにも属さず生きるには…?という
大命題が待っている!

最初の「奪人不奪境」
自分の思いを殺して、他の思いのままになっていく
簡単なようで、これはかなり難しい
当然、「他の思いのままになって行く」のは「自分の思い」なのだから
自分を殺して、何処に、他に従って行こうとする自分が存在するのか
と、俗人の筆者は考えるのだが
自己を空しくする…とは
古殿深沈として人見えず 満庭の桂花風露香し
なんて、ストント心に落ちる人にしか出来ないのかも?

さて、次回は「奪境不奪人」とは?

江碧鳥愈白 山青花欲燃
こう みどりにして とり いよいよしろく
やま あおくして はな もえんとほっす
有名な杜甫の絶句です  
江び碧と鳥の白、山の緑と花の紅
もうそれだけで、すべての自然が語られる
各々が何の衒いも無く、時に応じた自分でありながら
しかも互いの存在を際立たせている
自己は他を照らし、他は自己を照らしている
そして、完璧な自然の景を創り出している
死後の天国の図にも似ている…と言うことは
人間界では実現し難い様相なのだろうか?
人はいつも理想を掲げつつ、その理想郷の実現には不向きである
現実世界の生存に一喜一憂してしまう…
杜甫も、この大自然を前にしつつ
今春看又過 何日是帰年……今春みすみす又過ぎる いつ都に帰れるのか?と
落ちぶれた境地から逃れ難い様を吐露する
理想に向かって、もがき続けるのが我ら凡人の宿命か?
時勢に迎え入れられず、不遇に終わるのは杜甫だけではない
今、輝かしい春を迎えている人も、落胆の春ある人も
時間の渦に巻かれて消え果ていく
全き自然を詠んだ杜甫は詩を遺し名を遺す
大いなるもの絶対なるものに真実がある
ああ……だのに、だのに
今日明日の自分の姿が気になってしょうがない!
やっぱり俗の俗・凡の凡人なんだ~ナ

春色無高下 花枝自短長
しゅんしょく こうげなく かしおのずから たんちょう

うららかな日差しを和やかに浴びている春の景色
~これが春色~
万物すべてに降り注ぐ春の日差しは
もちろん誰にもみな平等に与えられる
同じ野に立てば、老若男女貧富の差に関わらず
太陽の温もりを感じられる…でも、でも
同じ野に立てない場合もあると思う
むしろ同じ場に立てない場合の方が多いのでは…
同じ一本の木であっても
陽の当たり加減が違っていて
蕾がふくらみ花開く枝と、僻んだように硬い蕾をつける枝…
ぐんぐん伸びていく枝や遅々として伸びぬ枝
その生じた場の違いが、花や枝の成り姿を決めていく
皆それなりに生を全うし「完全」なんだ!
と、単純に認めて喜んでしまう自分と
この違いは「格差社会」と同じでは? と
社会の縮図と感じてしまう自分
そんな二つの自分にも
春の日差しは、~それでいいよ~と言ってくれる
やっぱりなんだか嬉しくなる~春色~である

野火焼不尽 春風吹又生
野火焼けども尽きず 春風吹いて又生(しょう)ず

冬枯れした山肌を焼き尽くして、目に見えなくなっても
春が来ると、また青々と草が萌え出す

これもまた、先回と同じく2つの解釈ができそうだ
何かに失敗して、ギャフンと駄目になった…でも
悔い悩むこともない
時が来れば、また草の芽が萌え出すのだから…と
今しばらく我慢して、春を待とう!夜明けを待とう!
かなり明るい展望が(お気楽な未来が)開けます
しかし
冬枯れの野を、煩悩が無くなった境地と解釈すると…
その悟りの境地にノンビリ居座っていたら
いつのまにか、草ボーボーのふやけた春になってしまう
陽気のいいのに釣られて
煩悩の、雑念の、我欲の坩堝に填まってしまう
冬枯れ=何も無い=空  という状態は
因縁が生まれ、色の世界に戻っていく
春にはご用心 @ @ @ご用心!
筆者は有無なく眠っていたい気がする春である…

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「古今無二路」
ここん むにのみち

2008・1

わたしは今生きて
おかあさんは今よりちょっと昔
これから娘を産むとすれば、
今よりちょっと先

おおきな時間のなかで
ばらばらな人生の時間は
つながっていて
もやもやした深い時間をつくりあげている

そんな「路(みち)」を想像すると
ゆりかごに戻ったようで安心する…

…正月早々、眠くなってきました
今年も踏ん張っていきましょう
There is only one way!
安心して、この命の路を進んでいこう!

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枯木倚寒厳 三冬無暖気
こぼくかんがんにより さんとうだんきなし

2007・12

『五灯会元』巻6~婆子焼庵~
昔、婆子有て 一庵主を供養して、20年を経る。
常に二八の女子をして飯を送って給侍せしむ。
一日、女子をして抱定せしめ、
「正恁麼の時如何」と曰わしむ。
主 曰く「枯木寒厳に倚り 三冬暖気無し」
女子 婆に挙似す。
婆曰く「我れ 20年ただこの俗漢を供養し得たり」
遂に遣出して庵を焼く…とのこと

婆子=お婆さんのことではなく女性のこと
二八の女子=16歳 妙齢の女子
ある女性が、ある修行僧に修行にはげめるようにと
庵を与え、20年間、養ってきた
そこでどの程度修行が出来たか試す事にした。

若い女の子に食事を運ばせ、身を寄りかけさせる。
そして、「どんな気がする?」と僧に尋ねさせる。
僧が応えるには
「枯木が寒い岩の上に冬中突っ立ているようで
冷え切って、温もりが全くない
何とも感じない」とのこ

この言葉を聴いた婆子は
「しまった!なんとつまらぬ俗物を20年も養ってきたことよ」
と言って、その庵を焼いてしまった…とさ。

さてこれから、何を導き出すか?
誘惑の多い年末年始にしかと考えてみたい

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座禅のススメ

大智寺では自主的な坐禅を推進します

山門を入り石畳に沿ってまっすぐ本堂にお入り下さい
多分誰もいない・・と、思うのはあなたの視神経です
心の中には既に小さな仏様が見えているはずです
正面の机にある お線香を1本立てて下さい
ご本尊・釈迦牟尼仏の前に、正座してみましょう
目は90㎝前方下に落とし
息を鼻から出しながら、(イ―チ)と数え
息を出しきったら、速やかに吸込んで2息目(ニーイ)
3息目……10息目(ジュ―ゥ)まで数えたら
また1息~10息までを繰り返します
これを「数息観」といいます
*11,12,…と数を増やさず、1~10を繰り返してください


大智寺では空間の清浄を求めます

繰り返す呼吸が、無意識の呼吸となり、静寂となる
音があり音が無い 風が有り風が無い 自己が有り自己が無い
自分の心が静かになるには、自分の体を静にする事
姿勢を正し・呼吸を調え・心を調える
むさぼり・いかり・おろかさを除き
ものごとをありのままに観ることが仏教の基本です
そのための清浄なる場を、大智寺は提供します


森鴎外 「妄想」より

生まれてから今日まで、自分は何をしているのか。
始終何物かにむち打たれ駆られているように学問ということに齷齪している・・・(中略)
自分のしていることは役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる
その勤めている役の背後に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる
背後の何物かの面目を覗いて見たいと思い思いしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて
役から役を勤め続けている。この役が即ち生だとは考えられない
背後にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる




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