第一話:「摩訶般若波羅密多心経」
(まかはんにゃはらみたしんぎょう)
|
このお経は、人間の智慧に因る心の葛藤を快方させる教えです。
世界には様々な宗教があります。
人は人種も言語も違う中で、なぜ宗教が必要だったのでしょうか。
例えば死に直面した人、又は死者を送った家族の悲しみを宗教が解決しなければならない。
動物の命も植物の命も人間の命も共に大切だと思います。
人間は衣食住のすべてにおいて、他の動植物の生命を奪いながら生活しています。
毎日の食事でも、どれほど多くの命をいただいているか認識はありますか?
動物や植物が人間に食べられることを喜んでいると思いますか?
また、人間も動物も心臓は20億回打つと寿命が尽きるそうです。
しかし誰もが80才くらいで死ぬと決まっているわけではありません。
若くして死ぬ人、100才を超えてもまだ元気な人と、個人差があります。
若くして亡くなる人への悲しみは、いかばかりかと思います。
般若心経は、遺された人へ生きる希望を与えます。
欲望から逃れ、悲しみから逃れ、安楽の生活ができるよう欲望の根本を変えようと教えます。
この世に生まれてきた一人として、命とはいかなるものか深く自覚させるのが宗教なのです。
これからしばらく「般若心経」というお経について、
できるだけわかりやすくお伝えしていこうと思います。
平成25年1月21日 寛
|
|
第二話:「観自在菩薩 行深般若波羅密多時」
かんじざいぼさ ぎょうじんはんにゃはらみたじ
|
このお経では、観自在菩薩が煩悩の苦しみの中にいる人々に対して法を説きます。
仏教の根本思想は、生死の迷いからの脱出にあります。
このお経では、観自在菩薩と舎利子との対話によってその説明がなされます。
― 「観自在菩薩」 ―
南無大慈大悲救苦観自在菩薩のことであります。
十九の説法と三十三の姿となり人々を救ってくださる仏様であります。
この菩薩は化身仏で、実在の人物ではありません。
釈迦のもとで修行し、貧しく苦しむ民衆の中に入り
救済の為に種々に活躍した人と考えてはいかがでしょうか。
いわば、慈悲心を持った理想像を観自在菩薩と命名されました。
― 「行深般若波羅密多時」 ―
観自在菩薩は迷える人々に対して、
文明・文化のない本来の自然の中に戻りなさいと教えます。
人間の持つ知識や欲望では、
生死の迷いが解決されることはないと観自在菩薩は断言します。
皆様、自分の生命は何歳まであるとお考えですか?
東日本大震災で亡くなられた2万人以上の方々は、
3月11日に自分が死ぬと思っておられたのでしょうか?
病気・事故・天災、命は紙一重でつながっているにすぎません。
自分の人生を振り返ってみてください。
一歩違えば死んでいたということが少なからずあるはずです。
また、欲望とは年齢と共に変わっていきます。
小学校の頃の「あれが欲しい」「こうなりたい」と思ったことは
いつの日か忘れられます。
青年・壮年・老年と欲望の種はどんどん変わっていきます。
欲望の種は、身の回りにいくらでもあります。
しかし、明日自分が死ぬと考えてみてください。
本当に大切な欲望の種とは、
身体に必要な酸素・水分・腹を満たす食事などと少ないはずです。
切り捨てるものがたくさんあります。
心の片隅に死が近くにいると観ずることです。
観ずれば、要らないものばかりです。
世の中、欲望の種が身の回りに満ちている中で、
それを欲せず平然と生きる人間になれと観自在菩薩は説きます。
欲しいと思わなければ一切の苦は自ずと消えます。
しかし全部は消えません。
必ず一部残ります。
必ず残る事を意識することが、人間である証明です。
これをお経の最後に、観自在菩薩と釈迦如来様が説きます。
最後までお楽しみください。
平成25年2月21日 寛
|
|
第三話:「照見五蘊皆空度一切苦厄 舎利子」
しょうけんごおん かいくうどいっさいくやく しゃりし
|
― 「照見五蘊皆空度一切苦厄」 ―
これが般若心経の主文であります。
五蘊とは人間のもつ五つの感覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)
から発する欲望です。
1色蘊 … 眼に見えるものの形(形色)とその色(顕色)
2受蘊 … 外から刺激を受ける印象
3想蘊 … 受け止めた印象を頭に浮かべる表象
4行蘊 … 意志と行動
5識蘊 … 意識の作用
あらゆる欲望は、この五蘊の作用で起こります。
欲望とは、現状に不満を抱いた頭の作用です。
実現しない事を色々思いめぐらす事で、
ますます網のからまりの中に入っていきます。
皆様は、この欲望の苦悩から逃れる事をほぼ毎日経験しています。
欲望の苦悩からの脱出方法とは、「時間」です。
たとえ、欲するものが、手に入らなくても
時間が経過する事により忘れる方法があります。
新しい欲望が脳内を支配しますと、
前の欲望の種は次第に薄れ、いつしか忘れ去ります。
忘れ去れなくても第二、第三へと後退していきます。
皆様の頭は非常に精密にできています。
何回も過去の欲望を思い出し、その思い出す回数がだんだん減り、
その内に完全に思い出せなくなります。
即ち、新しい欲望が過去の欲望を忘れ去らせてくれるのです。
人間が命ある限り、欲望はどんどん起こります。
「一切の苦厄が起こらない」とは、死んだ時に初めて実現します。
欲望とは、空気や水のように人間にとって必要なものなのです。
欲望がなければ、生きていけません。
毎日、空気を吸い、水分をとることにより、生命体は維持されます。
しかし、たくさんあるからといって余分に取り込むことはできません。
欲望も、余分なものをどんどん落としてゆくのです。
仏教は皆様に「度する」ことを提案します。
「度する」とは、制御することです。
どんなに迷い、悩むことも、
時間が経過し新しい欲望が支配すると、ウソのように忘れます。
それが、一切の苦厄を解決する最良の解決方法です。
― 「舎利子」 ―
舎利子は、実在の人物の名です。
お釈迦様の十大弟子の一人で智慧第一であったと言われています。
彼は、仏弟子になる以前から思想家として活躍しており、
百人ほどの弟子もあったそうです。
彼ら思想家にとって「生死」とは、
不可思議の問題で解決できなかったのでしょう。
弟子共々、仏教教団に入ってきましたが、
お釈迦様より早く亡くなりました。
これから、観自在菩薩が舎利子に対し
人間の智慧による、煩悩や迷い、悲しみからの解放を説きます。
平成25年3月21日 寛
|
|
第四話:「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」
しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき
|
― 「色性是空 空性是色」 ―
現在の般若心経には、この語は入っておりません。
古代インドの言語(サンスクリット語)による原典には存在しました。
『色性是空 空性是色 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色』
という三段論法であったらしいです。
色とは、生命体が今此世界に存在しているということ。
空とは、生命体が死んで何もなくなること。又は、生命体の存在以前。
― 「色性是空」 ―
世界に生命体として存在するものは、「死」へ時間が動いている。
即ち、死からまぬがれることはできない。
― 「空性是色」 ―
現在この世界に生命体として存在していないものでも、
因縁ができ、時間が経過すると生命体として存在する。
― 「色不異空」 ―
現在、この世界に存在している生命体は、いつ死ぬかわからない。
確実にいつか死を迎える、しかしいつ死ぬかは誰にもわからない。
― 「空不異色」 ―
女性の身体に卵子が有る。
しかしすべての卵子が生命体になるわけではなく、
その中の因縁の熟した卵子のみ生命体となる。
即ち、自分に父母があるけれど、
なぜこの父と母であったのかわからない。
― 「色即是空」 ―
この世界に存在している生命体が死を迎える、その瞬間が有る。
心臓が止まり、目の瞳孔は開き、
お医者様が「ご臨終」という瞬間です。
― 「空即是色」 ―
一単細胞であった卵子が受精し、
細胞分裂が起き出す、その瞬間が有る。
自分の誕生日は戸籍に記入され、家族から聞かされますが、
母親の子宮の中で細胞分裂が起きた瞬間があったはずです。
しかし、その日がいつかだれも教えてくれません。
闇の中です。
観世音菩薩は、お釈迦様の弟子の中で智慧第一であった舎利子に、
その核心を説き明かします。
平成25年5月7日 寛
|
|
第五話:「受想行識 亦復如是」
じゅうそうぎょうしき やくぶにょぜ
|
五蘊すなわち色受想行識は、すべて連動しているという事である。
眼・耳・鼻・舌・身・意とは、人間が生まれてくる時に、
潜在的に持っているものである。
一方、生まれてからの経験・知識の積み重ねにより生ずるものが
色受想行識である。
人は死ぬことにより脳は働かなくなり、
働かない為に、悩みも苦も楽しみもなくなります。
自分を制御することは、いかに難しいか―
毎日の生活とは、苦と楽の表裏一瞬一瞬であるということ。
過ぎ去った過去はいかにしても取り戻せないし、
来るべき未来も予想するのみで確定ではない。
それに対して、人は思い悩んでいるのであります。
平成25年5月25日 寛
|
|
第六話:「舎利子 是諸法空相 不生不滅不垢不浄不増不減
しゃりし ぜしょうほうくうそう ふしょうふめつふくふじょうふぞうふげん
|
―「舎利子 是諸法空相」―
観音様が舎利子に向かって再度説きます。
あなたは今生きている、
しかし死に至る原因が常に存在する。
それは病気や事故、天災のことです。
太古の昔より現在に至るまで
生きてから死ぬまでずっと
人は死の淵に立たされています。
絶望の上にいるのと同じです。
―「不生不滅不垢不浄不増不減」―
死の淵、絶望に立っている舎利子よ。
何も考えがつかない、その一瞬一瞬こそ、
生せず、滅せず、よごれもなく、清浄でもなく、
欲望への思いもない「無心」と考えてなさい。
人の持つ思考とか、五感は、
未来永劫に自分が存在し続けると考えています。
しかし、生命体の命は、
いつ死が訪れるかと常に緊張しています。
その緊張している命と五感が
対話した所が「無心」です。
何もないのではなく、
動きがとれない所こそ「無心」です。
その絶体絶命が続くのですよ。
90才100才まで生きれるとは、
考えもつかないような、そんな所に
我が身を預けていることに気付きなさい。
平成25年6月21日 寛
|
|
第七話:「是故空中」
ぜこくうちゅう
|
―「是故空中」―
是故空中:このゆえに空の中に ―
「空」とは何であろうか。
両親より受け継いだ肉体は「色」と考える。
その一方で、魂や霊が他所より肉体に宿ったもの―
それを「空」と考えてはいかがでしょうか。
肉体は、寿命が尽きると死にますが、
魂は、肉体を離れて新しい生物に移り住む―
(この場合、生物とは人間に限りませんが)
これが仏教でいう六道輪廻の考え方です。
人には頭の良いと言われる人や、
頭の悪いと言われる人がいます。
これは知能指数とか知識の量で表されます。
それとは別に「胆力がある」とか、
「善悪を胸に聞いてみろ」とか
「腹が悪い」とか、
頭の良し悪しと違った所で
人間の本質についてよく聞かれます。
思考能力と違う能力が
胸やら腹の単語で表されます。
この能力は兄弟姉妹でそれぞれ違います。
どうも親の能力とも違います。
人の知識脳と違う能力を、
舎利子に理解させるために
観世音菩薩は「無い無い」と
以下の般若心経で否定します。
平成25年7月20日 寛
|
|
第八話:「無色無受想行識」
むしきむじゅそうぎょうしき
|
―「無色無受想行識」―
以後の段に何回も出てきます「無」―
「無」という字の示している所は何でしょうか。
「ない」という意味が一般的です。
しかし「無尽蔵」とか「無限大」などの
「無」の意味する所は「ない」ではなく
「ありすぎて」秤(はか)る物差がないという意味です。
観世音菩薩は、秤る大きさがわからないような
人間の意識の魂を舎利子に説いています。
人は両親の血を引き継ぎ様々な機能を持って
生まれてきます。
五感も思考能力も両親の能力を継いでいます。
しかし性格など違った人が多くいます。
同じように育てられた兄弟姉妹でも、
それぞれ微妙に違います。
それは仏教でいう魂が六道輪廻し、
人に乗り移っている為に違いができた
と、考えてみてはいかがでしょうか。
― 無色無受想行識 ―
色受想行識とは、
生まれてからの経験・知識の積み重ねから
生じてくる人の思いの様々なもの。
そんなものは魂に質量がないので秤れない、
確かに存在は感ずることはできるが、
秤ることはできない。
平成25年8月22日 寛
|
|
第九話:「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」
むげんにびぜつしんに むしきしょうこうみそくほう
|
「無眼耳鼻舌身意」 ― 五感や意識がない。
アメリカ人の女医キューブラーロスという人の書いた
『死の瞬間』という書物があります。
終末医療の患者さんの心臓が止まり、
医師が心臓マッサージなどし、再度意識が戻った際の
臨床体験の話をまとめた本です。
この本の中で筆者は、遊体離脱した患者さんが
ベットの回りにだれがいたか、何人いたかなどを
はっきり発言した、と記しております。
心蔵が止まり目も耳も機能するはずがないのに
なぜベットの回りに集まった人を記憶しているのでしょうか
裏を返せば両親から受け継いだ五感意識と違う
魂の感ずる意識五感があるということです。
「無色声香味触法」 ― 五感より感ずる機能がない。
同じく前著『死の瞬間』では、
心蔵の止まった患者さんが、
自分の危篤、死の知らせを電話で聞いた
息子の行動を見聞きしており、
その行動を正確に当てた、記しております。
遊体離脱した意識は、遠方にもかかわらず
息子の様子を見ていたのです。
「絶体絶命の時、何かの力が加わった」とは、
第二次世界大戦で戦場を体験した多くの方が
証言しています。
人間の本来の感覚と違う「魂の五感意識」は
太古の昔から感じられてきたものではないでしょうか。
平成25年9月26日 寛
|
|
第十話:「無眼界乃至 無意識界」
むげんかいないし むいしきかい
|
人の持つ五感の眼とは違った眼―
人の持つ単なる意識とは違った意識―
40年も前の事です。
お盆に眼も開いていない生まれたての子犬を
寺の境内に捨てた人がありました。
このまま死なすのはかわいそうだと家族が言うので
ミルクを哺乳瓶に入れて飲ませ、
4匹を育てることとなりました。
幸いにも4匹とも死なずに育ちました。
母親役は、住職である私でした。
4~5か月もすると大変かわいい子犬になりました。
親を知らない4匹の子犬はみな性格が違いました。
中国唐の時代に趙州和尚という方がおられました。
「犬に仏性があるのか、ないのか」という
有名な公案がございます。
兄弟、姉妹で性格も違い、考え方も違うことが
よくあります。
なぜ同じ父母に養育されながらこれほど性格やらの
違いが出るのか感じたことはありませんか。
すべての生けるものは、生まれた時に
六道輪廻の魂をいただいたのではないでしょうか。
般若心経はその不可思議を
このようにとらえているのではないでしょうか。
平成25年10月21日 寛
|
|
第十一話:「無無明亦 無無明尽」
むむみょうやく むむみょうじん
|
「明」とは、あかるさ、あきらかという意。
明日の事はわからない、その不安を表現しています。
たとえば霧が出て足元もわからないような、
純白の世界を想像してみてください。
明るいにもかかわらず、何も見えない世界―
山で遭難する人の前にあらわれる光景です。
人生も、先が見えそうだけれども
どう進んだらよいかわからなく失敗します。
失敗だと感じた時にはもう遅い。
正しい道を進んだと感じた行動も、
人生70歳を過ぎ、自分の生き様を振り返った時
大成功の人生であったと感ずる人、
こんな人生ではなかったと感ずる人、
ほどほどの成功でも失敗でもなかったと感ずる人
様々だと思います。
智能、感情、運動神経、すべてがからまり
人間関係、社会状況の元、
決断、また決断の連続が人生であります。
死を迎えた時こそ、決断をしなくても良い時です。
決断できない能力となった時に死を迎えるのです。
平成25年11月22日 寛
|
|
第十二話:「乃至無老死 亦無老死尽」
ないしむろうし やくむろうしじん
|
久しぶりにお会いした方を見て、
「齢をとられた」と感ずることがあります。
友人が亡くなられたとか、家族のだれかが
亡くなられたということは、実感ができます。
しかし、自分が齢を重ねたということは感じても
「老いた」ということは感じておれません。
明日もまた老い、来年になればまた老い、
老い続けなければなりません。
常に今しか自分にはありません。
最期に自分が死んだ時には、
他人が死を感じてくれますが、
自分にはもはや意識がありません。
あるお母さんのお話です。
二人の子供さんのお母さんです。
長女はつわりもなく順調にお産されました。
長女はカラッとした性格で育てやすかったそうです。
次女はつわりがひどく、お産も難産でした。
次女の性格ははっきりせず、もったりとし、
母親としていつもいらいらすると話されます。
皆様は自分の一生は「この世に生まれてから死ぬまで」
と考えられておられないでしょうか。
母体に十か月間、生命体があります。
その時にすでに性格を持っておったとなれば、
「性格、勇気、決断」など学習では持ちえない本性を
母体の中ですでに持っているのではないでしょうか。
「三つ子の魂百までも」以前に
魂は輪廻転生でいただいたとすれば、
生命体の生老病死とは違う、永遠に続く魂の生命体を
感じることができるのではないでしょうか。
平成25年12月21日 寛
|
|
第十三話:「無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故」
むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ
|
人の感情は苦楽増悪悲しみ喜びとありますが、、
輪廻転生する魂には苦楽の感情もなく、
知識を得る・失うもなく、何の増減もありません。
ただ、魂の持つ本性のみで感情の世界ではありません。
小さな「ウリボウ」と言われている3ヶ月くらいの
子どもの猪を捕まえました。
そこへ猟師が訪ねてきて「これはいいものがいる」と言いました。
生まれて6~7か月の子犬を十匹程猪のオリの前に置きますと
三種の行動を取る、と言います。
①オリに近づきすぎ激しく吠える子犬
②三メートル程離れて「ウー」とうなり動かない子犬
③しっぽを下げて一目散に逃げていく子犬
十匹の子犬の内で一匹くらいは、
三メートル程離れてうなっている子犬がいます。
その子犬が猪を追う犬となるそうです。
オリに近づく犬は結局猪に殺される。
逃げる犬はとても猪を追う犬にはなれないとの話です。
人は学校へ行き学習し、親から様々な事を教えられます。
しかし、犬は親の教育もありません。
生まれ持った本性を現し、その魂の違いを
とっさの行動に移します。
人もやさしい気性の人、荒い気性の人、気弱の人、
歴史に出てくるような大仕事をする人など違いがあります。
人には親より受け継いだ性質ではない、輪廻する本性(魂)が
あると考えます。
生まれてからの学習した知識では一代決心する時に
何の役にも立ちません。
一代決心をした時、それはまさに魂の決断であり、
無所得の境地だと考えます。
平成26年1月21日 寛
|
|
第十四話:「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故」
ぼだいさった えはんにゃはらみたこ しんむけげ むけげこ
|
如来様より一段下の位で衆生済度をお手伝いする仏が菩薩様です。、
この段より「般若波羅蜜多」と4回出てきます。
心経を覚える時にはよく間違える所です。
菩薩・如来が皆様を悟りに導くよう浅い所から深い所へと語ります。
「罣礙」とは、ひっかかり、さまたげになるという事です。
冬季オリンピックの選手も世界中の注目の中で、
大きなプレッシャーを内に抱え、競技をしている事でしょう。
普段の実力を発揮する事がいかに難しいか、
まさに「罣」ひっかかり、「礙」さまたげ、だと思います。
一方、バリ島で潜水中に遭難した7名も、
岩場に辿り着くまでは呼吸することに一心になった事でしょう。
家族の事も、お金も予定も、頭の中には何もなかったと思います。
ただ海水を飲まずに息をすることのみに一心であったと思います。
その要は、一心になる事です。
普段の生活の中で、これほど一心になれるでしょうか。
自分の生活も、家族の事もすべて忘れ、
一瞬一瞬に全生命・全精神を集中させる。
これが菩薩の示す般若の智慧の道だと説きます。
これを会得すれば、次の深い般若の智慧に到達できますよ。
平成26年2月21日 寛
|
|
第十五話:「遠離一切顚倒夢想究竟涅槃三世諸仏」
おんりいっさいてんどうむそうくぎょうねはんさんぜしょぶつ
|
「一切の顚倒夢想」とは、迷いの心です。
この世に生まれた時には、誰もが純白な心でありました。
その心が、物欲・知識欲・性欲などを持ち成人します。
「欲望」とは、幼少時代、青春時代、壮年時代、老後と、
自分の一生の内で様々な形となり現れ、消えていきます。
一方、「悟り」とは、自分を死んだものと考え、
それでも残るものとは何であるかに目覚めることです。
涅槃に究竟するとは、死ぬことではありません。
今まであたかも大切であると考えていた数々の迷い・煩悩が
取り除かれた後の心です。
この心をどこまでも追及することが、究竟であります。
「無門関」という悟りへ導く問題集があります。
その第一則趙州狗子という問題の解説に、このようにあります。
この問題をもって悟ることができたら歴代の祖師と手を取って共に生き
眉毛相結んで同一眼に見ることができ、同一耳に聞けるようになる。
まったく痛快な気持ちになる。
全身全霊を昼夜をおかず、この問いに集中しなさい。
この熱鉄丸を口の中に入れ、
吐き出すことも、飲み込むこともできない。
この状態を続けることこそ、涅槃を究竟することであり、
迷いの世界から脱却できることとなる。
迷いの世界から脱却すると、三世諸仏と同じになれます。
三世諸仏とは、現在千仏・過去千仏・未来千仏であり、
合わせると、三千仏となります。
その三千の仏様と同じ気持ちになることが、悟りです。
平成26年3月27日 寛
|
|
第十六話:「依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提」
えはんにゃはらみたことくあのくたらさんみゃくさんぼだい
|
般若の智慧によって無上の正しい悟りが得られる。
小乗仏教では仏教信者はすべて僧侶の姿となり修行します。
一方、大乗仏教は修行する僧侶と一般大衆に分かれます。
修行し、無上の正しい悟りが得られた僧は、
一般大衆の迷いを聞き、その迷いを取り除くために
活動することが求められます。
迷う人を救済するために、
自分のみの悟りの世界に閉じこもることなく、
進んで一般社会にとけ込まなくてはなりません。
すなわち、如来の高い位にとどまることなく、
菩薩という一段下った位に降りて人々に手を差し伸べます。
大韓民国の旅客船の痛ましい事故で苦しむ家族も、
悲しむのみではおれません。
死んだ人とは違い、時間がこれば自ずと腹が減り、
いやいやながらも、何かを食べなくてはなりません。
この腹が減るという事が、生きている証しです。
いずれそのことに気づくのです。
誠に辛いことですが、悲しんでいる間も腹が減ります。
人間に限らずすべてこの動物は時間がこれば腹が減る。
あまりにも身近なことですが、これが生きている証しです。
「人間は考える葦」であります。
考えるから喜怒哀楽が生まれてきます。
しかし腹が減るのは、考えなくても考えても
時間がこれば腹が減ります。
この根本の問題こそが無上の悟りの始まりです。
平成26年4月22日 寛
|
|
第十七話:「故知般若波羅蜜多 是大神呪
是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦真実不虚」
こちはんにゃはらみた ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ のうじょいっさいくしんじつふこ
|
「呪」とは呪文のことです。
4つの呪とは、自分が現在存在することへの感謝です。
大自然の営みに対して感謝すること。
自分をとりまく社会に対して感謝すること。
先祖、父母、家族に対して感謝すること。
現在という時代に生きていることに感謝すること。
生きているのではなく、生かされてることを認識する
いつまで生きるか保障されていない、
次の瞬間何が起きるかわからない毎日であります。
しかし生きてきた今日までは、無事であったわけです。
人は、何もないところからは生まれてきません。
一人の人間の先祖をさかのぼれば、
地球に生命体が発生した最初まで行き着くはずです。
大自然が生み出した呪文(マジック)が、
自分そのものであるかのようです。
それに気づきなさい、と経文は教えます。
「能除一切苦真実不虚」
大自然の営みの中で、
幸いにも生かされている自分に気が付けば、
小さな苦などたいした事ではありません。
「今」自分は生きているのです。
夢でも幻でもありません。
そんな荘厳な般若の傘の中に自分はいるのだと、
思ってください。
平成26年5月20日 寛
|
|
第十八話:「故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶 般若心経」
こせつはんにゃはらみたしゅ そくせつしゅわつ ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてーはらそうぎゃーてー ぼじそわかはんにゃしんぎょう
|
古来よりの訳では
「即ち呪文を説いて往ける者よ、往ける者よ。
彼岸に往ける者、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ」
とか、
「到れり、到れり、彼岸に到着せり、悟りめでたし」と
解釈されています。
お釈迦様は生老病死という4つの苦がある、と説かれました。
人はこの経典を聞き、暗唱し、意味を知りたいと
思うようになるまで
何十年という命を生き延びたのでありましょう。
その間には、数多くの苦があり、
谷あり山ありの人生であったと思います。
また、友人の死、家族の死、
マスコミで取り上げられる多くの死に
遭遇されたことでしょう。
しかし、自分は今生きているのです。
ひとつ間違えば死んでいたかもしれない。
死の招きを拒否し、死をすり抜けて
今日まで生きてこられました。
その幸運、その強運に感謝し、
生きていることを実感しなさい。
「往け、往け」とは、
あなたは今生き続けているということです。
彼岸とは、他所にあらず、
自ら我が生ける所であると感ずることです。
心萬境に従いて、転ずるのです。
その心を転じさせるのは、自分自身です。
今の自分の所が、彼岸と思うか地獄と思うかは
自分自身です。
彼岸に到着せり、悟った、これで幸せをつかんだ
と、毎朝起きたら思い、
夜寝る前には、今日は充実した幸せな一日だった、
楽しい夢でも見よう、と寝ることです。
いつか死の迎えが来た時には、
充実した人生であったと
納得して静かに往けると思います。
平成26年6月20日 寛
|
|
ページの先頭へ
大智寺TOPへ
|